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''' モンゴル・南宋戦争 '''、[[13世紀]]に[[モンゴル帝国]]と[[南宋]]との間で行われた[[戦争]]。[[1235年]]から[[1279年]]まで断続的に行われたが、時期によって第1次([[オゴデイ]]治下の[[クチュ]]の南征[[1235年]] - [[1241年]])、第2次([[モンケ]]治下の[[クビライ]]の南征[[1253年]] - [[1259年]])、第3次(南宋滅亡[[1268年]] - [[1279年]])にけられる。
 
== クチュの南征 ==
[[ファイル:宋・金時代.PNG|right|thumb|300px|モンゴル帝国勃興時の諸国]]
[[1227年]]、モンゴル帝国の創始者[[チンギス・カン]]が死去すると、[[1229年]]に行われた[[クリルタイ]]の結果、オゴデイが第2代[[ハーン#モンゴル帝国のハーン|ハーン]]となった。オゴデイはまずその政権の盤石さを示すため、南宋と同盟を結び[[第二次対金戦争]]を起こした。戦闘の大部分はモンゴル軍が担ったが、南宋側でも[[孟キョウ|孟珙]]を派遣するなど勝利に貢献し、[[1234年]]、[[金 (王朝)|金]]をついに滅ぼした。
 
そこでモンゴル帝国と南宋は協定を結びモンゴル軍は北還を開始したが、南宋政府は[[遼]]滅亡時と同じように[[中原]]回復という非現実的な目標を掲げ協定を破って[[洛陽市|洛陽]]・[[開封市|開封]]等の都市を奪回した。この行為は当然モンゴル帝国軍の激しい怒りを呼び南下が開始された。
 
一方、オゴデイ政権では東西への大遠征が企画されつつあり、[[バトゥ]]の西征と対になる形でオゴデイの第3子クチュを総大将とする南宋侵攻作戦が決定された。クチュはモンゴル軍伝統の三軍団方式をとり、西路軍は[[コデン]]が率い[[甘粛省|甘粛]]方面から、東路軍はカチウン家のアルダイチなどが[[山東省|山東]]方面から、そして中央軍は漢水流域を南下し大軍で南宋に攻め込んだ。

しかし総大将であるクチュが開戦早々に不可解な急死を遂げ中央軍が後退してしまうと、モンゴル軍の指揮系統は混乱してしまい、諸軍がばらばらに南宋側の諸都市を攻撃することとなった。ここにおいて指揮系統の混乱したモンゴル軍はしばしば攻城戦を失敗し、前回のモンゴルと南宋との衝突でも活躍した孟珙が再び起用されると逆に南宋軍に押し込まれ、[[襄州区|襄陽]]までをも失ってしまう。
 
== 顎州の役 ==
[[オゴデイ]]死去3[[ハーン#モンゴル帝国のハーン|大ハーン]][[グユク]]とバトゥの対立などで一時、モンゴル帝国内で混乱が起こったが、[[モンケ]]がハーンに即位するとその混乱も収まり再びモンゴル帝国は東西への大遠征を企画した。モンケは実弟[[クビライ]]、[[フレグ]]にそれぞれ[[東アジア]]、[[西アジア]]の経略を委ねることを発表した。
 
[[1251年]]、クビライは金蓮川に入るとそこを本拠地とし、南宋侵攻を計画した。まず手始めにクビライは南宋を包囲するため、[[1253年]]に[[雲南・大理遠征]]で[[大理国]]を屈服させたものの、以後は金蓮川から動かず[[高麗]]遠征、南宋侵攻の指揮を執り、南宋の攻略に関しては長期戦に持ち込む構えをとった。
[[オゴデイ]]死去以後第三代[[ハーン#モンゴル帝国のハーン|大ハーン]][[グユク]]とバトゥの対立などで一時、モンゴル帝国内で混乱が起こったが、[[モンケ]]が大ハーンに即位するとその混乱も収まり再びモンゴル帝国は東西への大遠征を企画し、モンケは実弟[[クビライ]]、[[フレグ]]にそれぞれ[[東アジア]]、[[西アジア]]の経略を委ねることを発表した。
 
[[1251年]]、クビライは金蓮川に入るとそこを本拠地とし南宋侵攻を計画した。まず手始めにクビライは南宋を包囲するため[[1253年]]に[[雲南・大理遠征]]で[[大理国]]を屈服させたものの以後は金蓮川から動かず[[高麗]]遠征、南宋侵攻の指揮を執り南宋の攻略に関しては長期戦に持ち込む構えをとった。しかし短期決戦を望むモンケはクビライの慎重策に不満を持ちクビライを更迭、タガチャルを起用した。しかしそのタガチャルも[[襄州区|襄陽]]・[[樊城区|樊城]]を攻撃したものの何故かすぐに撤退を始めた。激怒したモンケは今度はタガチャルを更迭し再びクビライを起用し自ら南宋侵攻に打って出るも各隊の連携がうまくいかずモンケの軍のみが突出しすぎる形となり軍中にはやった疫病にかかり[[1259年]]モンケは軍中にはやった疫病により死去した。
 
モンケの死によりモンゴル帝国の大ハーン位クビライと[[アリクブケ]]の間で争われることとなったが、クビライは急いで北還することで配下の軍勢、特に漢人部隊が離散することを恐れ、逆に南下することで配下の軍勢を留めいた。南下したクビライはモンゴル軍としては初めて[[長江]]を渡り顎州を包囲した([[顎州の役]])。
 
一方モンケの死によるモンゴル軍の不規則な行動を図りかねていた南宋はモンゴル軍が長江を渡ったことに衝撃を受けて[[賈似道]]を顎州に派遣した。しかしこの頃にはクビライ陣営に帝国の有力者タガチャルが加わり、加速度的にクビライにく旧南宋遠征軍は増えていっており、クビライはすでに北還を決意していた。

援軍に来た賈似道は長江を渡ろうとしていたモンゴル軍の一部を襲撃、撃破したものの、この時の勝利をもとにこの後、賈似道はその後[[宰相]]にまで出世し独裁権を確立する、当時から賈似道とクビライの間に密約があったのではないかという噂がささやかれ、この戦闘の戦果を疑問視する説もある。
 
== モンゴル軍の大侵攻 ==
あしかけ4年にわたる[[モンゴル帝国帝位継承戦争|帝位継承戦争]]を制したクビライはモンゴル帝国5代ハーンに即位し、まだ[[中央アジア]]方面に残る反乱分子との戦いと並行して南宋侵攻を企画した。南宋作戦の難しさを身をもって知るクビライはまず[[江南]]ではその長所を十分に生かし切れないモンゴル[[騎兵]]を主体とする作戦をやめ、ごく少数のモンゴル騎兵を中核とした[[キタイ契丹]]、[[女真]]、[[漢人]]の混合部隊に、さらに旧[[華北]]の[[軍閥]]の歩兵主体の大兵団を貼り付け加え3重構造の軍団を再編成した。
 
[[1268年]]、[[アジュ]]を主将、[[史天沢]]を副将格とするモンゴル軍は南下を開始し、まず樊城を囲んだ。[[襄陽・樊城の戦い|襄陽・樊城攻防戦]]は4年にわたって行われ、[[呂文煥]]以下の南宋軍は非常に良く抗戦したものの、周到に準備・計画を行ったモンゴル軍に敵わず、[[1273年]]に降伏した。
 
大いにモンゴル軍を苦しめた呂文煥であったが、すでになるべく無傷で[[江南]]の地を取ろうと考えていたクビライは大いに優遇し、味方に引き入れようと努めた。十分な援軍を送ろうとしなかった賈似道政権に不満を持っていた呂文煥は、クビライに忠誠を誓い、モンゴル軍に加わった。
 
襄陽・樊城の陥落と呂文煥の投降が南宋の人民に与えた衝撃は大きく、また呂文煥が長年の人脈から長江流域に広く調略を行ったため、南宋は急速に基盤を緩めつつあった。この状況を見て取ったクビライは南宋への大侵攻を決定、[[バヤン (バアリン部)|バヤン]]を総大将とする空前の大軍が南下を始めた。
 
バヤンは自ら20万の大軍を率いて襄陽から漢水に沿って南下した。漢口([[武漢]])で南宋の艦隊に阻まれたものの、呂文煥の案内で密かに軍の一部を徒渉させて艦隊を挟撃する構えをとったことで、おびえた南宋艦隊は撤退し、[[1274年]]には鄂州がモンゴル軍の手に落ちた。
[[1268年]]、[[アジュ]]を主将、[[史天沢]]を副将格とするモンゴル軍は南下を開始し、まず樊城を囲んだ。[[襄陽・樊城の戦い|襄陽・樊城攻防戦]]は4年に渡って行われ、[[呂文煥]]以下の南宋軍は非常に良く抗戦したものの周到に準備・計画を行ったモンゴル軍に敵わず、[[1273年]]に降伏した。大いにモンゴル軍を苦しめた呂文煥であったが、すでになるべく無傷で[[江南]]の地を取ろうと考えていたクビライはかえってこれを非常に優遇し味方に引き入れようと努めた。もともといくら言おうと十分な援軍を送ろうとしない賈似道政権に不満を持っていた呂文煥はクビライに忠誠を誓いモンゴル軍に加わった。襄陽・樊城の陥落と呂文煥の投降が南宋の人民に与えた衝撃は大きく、また呂文煥が長年の人脈から長江流域に広く調略を行ったため南宋は急速に基盤を緩めつつあった。この状況を見て取ったクビライは南宋への大侵攻を決定、[[バヤン (バアリン部)|バヤン]]を総大将とする空前の大軍が南下を始めた。
 
バヤンは自ら20万の大軍を率い襄陽から漢水に沿って南下し、漢口([[武漢]])で南宋の艦隊に阻まれたものの呂文煥の案内で密かに軍の一部を徒渉させ艦隊を挟撃する構えをとったことでおびえた南宋艦隊は撤退し、[[1274年]]には鄂州がモンゴル軍の手に落ちた。もともとバヤンはクビライにむやみに敵を殺害することを避け、できるだけ無傷で降伏させていくよう命令されていたため鄂州でも一切の略奪を禁ずるなど丁重に扱っていたが、これが南宋側にも伝わると続々と投降者がた。水陸並んで長江を下るモンゴル軍は投降した兵によってふくがりようやく出陣してきた賈似道の軍も蕪湖の戦いで粉砕し[[杭州市|臨安]]に迫った。
 
[[1276年]]、臨安は無血開城し南宋は事実上滅亡した。[[張世傑]][[陸秀夫]]ら一部の軍人と官僚により抗戦が続けられたが広州湾において[[崖山の戦い]]でモンゴル軍に撃滅され、南宋は完全に滅びた。
 
== 関連項目 ==
*[[第二次対金戦争]]
*[[モンゴル帝国]]
*[[南宋]]
*[[オゴデイ]]
*[[モンケ]]
*[[クビライ]]
*[[呂文煥]]
*[[賈似道]]
*[[襄陽・樊城の戦い|襄陽・樊城攻防戦]]
*[[四駿四狗]]
*[[崖山の戦い]]
 
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[[Category:宋]]
[[Category:中央ユーラシア史]]
[[Category:モンゴルの歴史]]