「義和団の乱」の版間の差分

以上に挙げた武術組織は、極めて強い宗教的性格を有し、内部ではシャーマニズム的な儀式も持っていた。そういた組織の崇拝する神は、[[斉天大聖|齊天大聖]]([[孫悟空]]の神格化)や[[諸葛亮]]、[[趙雲]]など(庶民の娯楽の『[[西遊記]]』、『[[三国志演義]]』から神格化されたもの)であった。義和団では、神が乗り移った者は、刀はおろか銃弾すら跳ね返すような不死身になると信じた。
 
義和拳の勢力拡大は燎原の野火の如く急激であったが、それには地方大官が取り締まりに消極的だったことも一因である。[[山東]][[巡撫]]'''[[毓賢]]'''(いくけん)<ref name="ikuken">'''毓賢'''、?-1901。漢軍正黄旗の人。字は佐臣。買官(金銭によって官位を買う事)によって山東曹州の知府となったのを皮切りに、1888年[[提刑按察使司按察使|按察使]]・[[布政使]]を歴任した。[[1899年]]には張汝梅の後を受け山東巡撫となり、義和団対策に臨んだ。この時義和団に対し融和的な施策を取ったことから義和団の勢いが増し、アメリカ公使コンガーの強い要請によって更迭され、袁世凱が後任の巡撫となった。ただ毓賢はそのまま官を辞したのではなく、山西巡撫へと横滑りしただけである。これは罷免を求める西欧列強に対する清朝の精一杯の抵抗であったといわれる。辛丑条約後、列強によって罪を問われ、この時点でようやく罷免となった。その後[[新疆]]へと流される途中、[[蘭州]]で処刑された。『[[清史稿]]』巻465・列伝252より。</ref>は、義和拳の攻撃対象がキリスト教関連施設に限定されていることをもって、彼らに同情的で、義和拳を取り締まろうとした[[平原県]]知県[[蒋楷]]を逆に罷免し、義和拳を団練として公認しようとすらした。「義和拳」が「義和団」と呼ばれるようになるのには、こうした背景があったのであり、以下の文章では「義和団」に統一する。
 
[[1899年]]末、毓賢は欧米列強の要求によって更迭され、かわって[[袁世凱]]が赴任し義和団を弾圧した。しかしそれは山東省外への義和団拡大をもたらす結果となった。
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