「尾上菊五郎 (3代目)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
→‎芸風: 『江戸育御祭佐七』は明治31年初演
40行目:
 
==芸風==
三代目菊五郎は[[市川團十郎 (初代)|初代市川團十郎]]以来続いてきた江戸歌舞伎の型を整理したことで知られる。また[[世話物|生世話物]]や怪談物のケレンに長じ、『[[四谷怪談|東海道四谷怪談]]』『法懸松成田利剣』{{smaller|(けさかけまつ なりたの けん)}}、『阿国御前化粧鏡』{{smaller|(おくにごぜん けしょうの すがたみ)}}、『独旅五十三次駅』{{smaller|(ひとりたび ごじゅうさんつぎ)}}、『心謎解色糸』{{smaller|(こころの なぞ とけて いろいと)}}などの[[鶴屋南北|四代目鶴屋南北]]作の狂言を初演したほか、『[[油屋騒動|伊勢音頭恋寝刃]]』の福岡貢や『[[仮名手本忠臣蔵]]』の早野勘平、『[[義経千本櫻]]』のいがみの権太、『[[助六]]』の花川戸助六などにも優れた型を工夫した。
 
三代目菊五郎は「どうして俺はこんなにいい男なんだろう」と楽屋で自身の顔を鏡に映しながらつぶやいたほどの美貌で知られた。そのうえに演技力に優れ、また創意工夫を重ねた努力家でもあった。多くの怪談狂言では作者の大南北をはじめ、大道具方の[[長谷川勘兵衛|十一代目長谷川勘兵衛]]、[[鬘師友九|鬘師友九郎]]、衣装方などの裏方と協力して次々と新しい演出を生み出し、特に幽霊や妖怪から一転して美男美女に早変わりする型は観客を喜ばせた。役柄も広く、「[[立役]]、[[女形]]、老役、[[若衆|若衆方]]、立敵から[[三枚目]]まで、そのままの姿で替ります」(『役者外題撰』天保10年)と評され「兼ネル」の称号までを与えられている。
49行目:
----
<small>三代目菊五郎が好んで使った[[模様|役者文様]]。「良き事聞く」にかけている。</small>]]
江戸風のすっきりした芸風で、『[[仮名手本忠臣蔵]]』「六段目」の早野勘平の現在の型はこの三代目によって完成されたものといわれている。また江戸育御祭佐七心謎解色糸で演じたお祭り)ではが当り役となり、以後数度にわたってこれを勤めているが、或る時舞台の行灯が暗すぎたのに加えて本人の視力の衰えと[[科白]]の暗記の不十分が災いし、読むべき手紙が読めずに腹を立てた挙げ句、[[行燈]]を包丁でぶち壊すという大変な初日となったが、これが逆に評判となって大当たり。しかもその形が孫の[[尾上菊五郎 (5代目)|五代目菊五郎]]にしっかりと伝わった。
 
大坂に客演した時には、『[[義経千本櫻]]』「すし屋」のいがみの権太を洗練された江戸歌舞伎の形で勤めたところ、吉野の寒村にそんな江戸っ子がいるかと客席から野次が飛んだ。菊五郎は動じることなく「勘当されて江戸に出てすし職人になって江戸弁を覚えた」という主旨の経緯を即興で入れて逆に評判をとっている。芸に対する自信と臨機応変さを持ちあわせていた菊五郎ならではの取り繕い方である。<!--草双紙を執筆するなど文才もあった。-->