「上田卓三 (政治家)」の版間の差分

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|前職 =
|現職 =
|所属政党 = ([[日本共産党]]→)<br/>([[日本共産党 (日本のこえ)|日本のこえ]]→)<br/>[[日本社会党]]
|称号・勲章 =
|世襲の有無 =
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==人物==
[[大阪市]][[東淀川区]]に生まれる。大阪市立扇町第二商業高等学校定時制(現[[大阪市立中央高等学校]])卒業。[[1958年]]に解放同盟へ参加。前後して[[日本共産党]]に入党するも、[[1964年]]に[[志賀義雄]]らが[[部分的核実験停止条約]]の批准をめぐり[[日本共産党 (日本のこえ)]]を結成すると後を追う。その後解放同盟大阪府連書記長・委員長を歴任し、部下の解放同盟員らと日本社会党に集団入党する。[[1970年]][[2月17日]]、[[同和行政]]の[[窓口一本化]]を求め、約70名の部落解放同盟員と共に[[日本共産党]]議員控室に乱入、[[暴行]][[傷害]]事件を起こし、同年[[2月21日]]に共産党府議たちから[[告訴]]されるも、上田個人は[[起訴]]を免れ、解同大阪府連吹田光明町支部長Tのみが起訴される(Tは[[1979年]]に[[罰金刑]]が確定)<ref>[[部落問題研究所]]編『「解同」は何をしてきたのか』([[1994年]]、[[部落問題研究所]])巻末年表p.6 ISBN 4829810394</ref>。[[1972年]]7月には[[山口県]][[光市]]の路上で[[全国部落解放運動連合会|全解連]]山口県連の書記長[[村崎勝利]]ならびに光支部長[[村崎寧]]に対し、[[上杉佐一郎]]らと共に暴行傷害事件を起こし、光警察署に告訴されている。
 
[[1974年]]の[[第10回参議院議員通常選挙|参院選]]で[[大阪府選挙区]]から[[日本社会党]]公認で出馬するが、落選。2年後の[[第34回衆議院議員総選挙|衆院選]]で[[大阪府第4区 (中選挙区)|大阪4区]]から出馬して初当選する。以後連続6期務め、この間[[飛鳥田一雄]]委員長の下で国際局長・[[田邊誠]]委員長の下で党副委員長を務めた。[[1979年]]に米国へ亡命した元ソ連国家保安委員会([[KGB]])少佐[[スタニスラフ・レフチェンコ]]はその著書で上田を日本社会党内におけるソ連のスパイ協力者の一員であったと指摘。上田を'''ウラヌス'''と呼んでいたことを公表した。