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海外遠征で[[ヒール (プロレス)|ヒール]]転向すべく、ブロンド髪の悪役日本人レスラーの元祖である[[上田馬之助 (プロレスラー)|上田馬之助]]のもとへ「同じ髪色の使用許可」を得た。上田にはヒールの心得も伝授され、現在のスタイルの礎を築く。凱旋帰国後の[[1985年]]、[[高野攘治|ザ・コブラ]]のライバルとして台頭し、第12代WWFジュニア王座を奪取。同じヒール軍団である[[平田淳嗣|マシン]]軍団と共闘するが、[[若松市政|ワカマツ]]らマシン軍団と仲間割れを起こす。その後、新日を離脱し[[平田淳嗣|スーパー・ストロング・マシン]]&高野俊二(現[[高野拳磁]])と[[カルガリーハリケーンズ]]を結成、[[全日本プロレス]]を主戦場にする。
[[1986年]]には[[
全日から新日へUターンの際はカルガリーハリケーンズは解散し、[[長州力]]率いるリキ・プロダクションの一員として参加。新日正規軍、長州軍の枠組みが無くなってからは[[後藤達俊]]、[[保永昇男]]らとヒール・ユニット[[ブロンド・アウトローズ]]を結成。かつての盟友[[平田淳嗣|スーパー・ストロング・マシン]]が加わってからユニット名を[[レイジング・スタッフ]]に改名。
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