「アグラブ朝」の版間の差分

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== 歴史 ==
=== 成立と発展 ===
創設者は[[イフリーキヤ]]([[マグリブ]]地方東部。いまのチュニジアを中心とする地域)の政局混乱を収拾し、[[ベルベル人]]の反乱を鎮圧した功によって、アッバース朝の第5代[[カリフ]]である[[ハールーン・アッ=ラシード]]からイフリキーヤ総督に任命された[[イブラーヒーム・イブン・アル・アグラブ]]である。かれはアッバース朝カリフの宗主権を認めながらも独立した地方政権を北アフリカの地に確立した。なお、かれは[[フランク王国]]の[[カール大帝]]に[[ライオン]]などの当時としては珍獣を贈っている。
 
なお、初代のイブラーヒーム1世はあくまでアッバース朝より派遣されたアミールを称していたが、その後継者らは完全に自立して貨幣にアッバース朝[[カリフ]]の名を刻まなかった。
827年より[[シチリア島]]への進出を開始し、878年までに征服を完了させた。キリスト教徒の信仰は尊重されたが、シチリア島西部ではムスリムの移住が進み、西部の中心都市である[[パレルモ]]などでイスラーム化が進んだ。
 
[[827年]]より[[シチリア島]]への進出を開始し、[[878年]]までに征服を完了させた。これによりヨーロッパ近海の制海権を掌握して諸島を征服し勢威を誇った。王朝としては第7代の[[ズィヤーダ・アラーフ2世]]のときに全盛期を迎えた。
 
827年より[[シチリア島]]への進出を開始し、878年までに征服を完了させた。キリスト教徒の信仰は尊重されたが、シチリア島西部ではムスリムの移住が進み、西部の中心都市である[[パレルモ]]などでイスラーム化が進んだ。首都のケルアンは[[メッカ]]・[[マディーナ]]・[[エルサレム]]に次ぐ「天国への第4の門」と称された
 
=== 大モスクの再建 ===
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=== アグラブ朝の滅亡 ===
909年に[[イスマーイール派]]で[[ファーティマ朝]]の創始者となった[[ウバイドゥッラー]](アブドゥッラー・マフディー)によって君主の[[ズィヤーダ・アラーフ3世]]が逃亡して滅ぼされた。
 
== 歴代君主 ==
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==参考文献==
* [[ジョン・E・モービー]]『世界歴代王朝王名総覧』東洋書林,1993年 ISBN 4887210396
* [[北原敦]]『新版世界各国史15 イタリア史』山川出版社,2008年
* 『アジア歴史事典』[[平凡社]]. [[1959年]]
 
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