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== 人物・略歴 ==
[[京都]]出身。[[那波活所]](なわかっしょ)に師事し、その後父[[林羅山|羅山]]同様[[江戸]]に赴き[[江戸幕府]]に仕えた。父羅山の死去後の[[
[[日本史]]に通じ、父羅山とともに『[[日本王代一覧]]』、『[[本朝通鑑]]』(『本朝編年録』)、『[[寛永諸家系図伝]]』など、幕府の初期における編纂事業を主導し、[[近世]]の[[歴史学]]に大きな影響を与えた。鵞峰が整えた林家学塾の組織は、その後の[[昌平坂学問所]]の基礎となった。
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多方面な関心をいだいてエンサイクロペディストぶりを発揮した父羅山にくらべ、鵞峯は、『本朝通鑑』や『日本王代一覧』などにおいて「日本」の国柄がどのようなものであったかを追究し、幕府政治の正統性や妥当性がどうあればいいかについて、その支配[[イデオロギー]]形成の端緒を開いたとも評される<ref> [http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1090.html 松岡正剛の千夜千冊『徳川イデオロギー』ヘルマン・オームス]</ref>。
なお、[[寛永]]20年([[1643年]])の著書
== 家族 ==
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