「将軍継嗣問題」の版間の差分

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== 徳川家定の後継問題 ==
江戸幕府12代将軍[[徳川家慶]]の嫡男・家祥(後の家定)は病弱で言動も定かではなかった([[脳性まひ麻痺]]とも言われている)。そこで、家慶は[[水戸藩|水戸藩主]][[徳川斉昭]]の子で[[一橋家]]を継いでいた[[徳川慶喜]](一橋慶喜)を[[養子]]とする事を考えたが、[[老中]][[阿部正弘]]の反対で思いとどまり、家定に不測の事態が起きた際に慶喜を後継とすることとした。
 
[[黒船]]が来航の直後、家慶が死去した混乱の中、日本は[[日米和親条約]]締結を余儀なくされる。しかし、家慶の後を継いだ家定は将軍就任後、更に病状を悪化させて時には廃人に近い状態となり、政務が満足に行えなかった。しかも子はなく、その後継者問題が急浮上した。
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=== 関連項目 ===
* [[一橋派]]
* [[南紀派]]
* [[安政の大獄]]
 
== その他の将軍継嗣問題 ==
武家の棟梁であり、実質的な第一執政者である[[征夷大将軍]]に、後継者が決まっていないことは国家の一大事であり、無難に嫡男に決まったケース以外は、頻繁に政治問題となっている。
 
=== 継嗣の最終決定までに紛争があったケース ===
[[室町幕府]]8代将軍・'''[[足利義政]]'''の後継問題
: 義政は弟の義尋([[足利義視]])を[[還俗]]させて将軍を譲ろうと考えたが、[[正室]][[日野富子]]に[[足利義尚|義尚]]が誕生したため、両者の間で継承を争うことになり、[[応仁の乱]]の原因の一つとなった。はじめ東軍の[[細川勝元]]に支持された義視が、後に西軍の[[山名宗全]]方に寝返ったため、義政は義尚を後継とした。義視自身は結局将軍にはなれなかったが、9代将軍となった義尚が早世したため、義視の子・[[足利義稙|義材(義稙)]]が10代将軍となった。
 
[[江戸幕府]]初代将軍・'''[[徳川家康]]'''の後継問題
: 家康の嫡男[[松平信康|信康]]は[[織田信長]]の命で切腹させられており、次男の[[結城秀康|秀康]]は[[豊臣秀吉]](後に[[結城晴朝]])の養子に出したため、後継は早くから三男の[[徳川秀忠|秀忠]]に定めていたが、[[関ヶ原の戦い]]での遅参など、資質に疑問を持った家康が四男[[松平忠吉]]も含め、功臣たちに後継者は誰が良いかを尋ねたという逸話が伝わっている。この時、[[本多正信]]は秀康を、[[大久保忠隣]]は秀忠を、[[井伊直政]](忠吉岳父)は忠吉を推したとも言われる(『台徳院殿御実記 附録巻一』に引く「武徳大成記」より)が、史実であるかどうかは疑わしい。
 
江戸幕府2代将軍・'''[[徳川秀忠]]'''の後継問題
: 秀忠には正室[[崇源院]]との間に儲けた男子として長男の[[徳川家光|家光]]と次男の[[徳川忠長|忠長]]があった。崇源院は[[乳母]][[春日局|斎藤福(春日局)]]に養育された家光よりも、自ら育てた忠長を溺愛したとされ、忠長を継嗣に推す者もあったと言われる。しかし秀忠は継嗣を家光と定めており、順当に家光に将軍職を譲って[[大御所 (江戸時代)|大御所]]となった。忠長は母の死後、行状が悪化したため父や兄から叱責され、結局[[改易]]・[[自害]]させられた。
 
江戸幕府5代将軍・'''[[徳川綱吉]]'''の後継問題
: 綱吉の男子・[[徳川徳松|徳松]]は夭折したため、後継者を別に求める必要があった。本来綱吉は兄・[[徳川綱重|綱重]]が先に死去していたため襲職した経緯もあり、綱重の子・[[徳川家宣|綱豊(家宣)]]が後継に擬せられていた。しかし、綱吉が溺愛する娘の[[鶴姫 (徳川家)|鶴姫]]の聟となった[[紀州徳川家]]の[[徳川綱教|綱教]]もまた継嗣候補として目されていた。綱教・鶴姫夫妻はともに綱吉より先に死去したため、結局綱豊を継嗣と定めることになった。
 
江戸幕府8代将軍・'''[[徳川吉宗]]'''の後継問題
: [[紀州徳川家]]から徳川宗家へ入った吉宗は、[[紀州藩]]主時代にすでに嫡男・[[徳川家重|長福丸(家重)]]を儲けており、将軍就任とともに世子として[[江戸城]]に入った。しかし、家重は虚弱体質であり、[[言語障害]]もあったため、後継として不安視された。次男の[[徳川宗武|宗武]](後に[[田安徳川家]]創設)という優秀な候補もいたため、一時期は吉宗も後継に迷ったと言われるが、結局長幼の序を重んじ、家重に将軍職を譲って[[大御所 (江戸時代)|大御所]]となり、宗武には田安家を、三男の[[徳川宗尹|宗尹]]には[[一橋徳川家|一橋家]]を創設させた。
 
江戸幕府10代将軍・'''[[徳川家治]]'''の後継問題
: 家治の嫡男[[徳川家基|家基]]は若くして死去したため、後継者が血縁者から選ばれることになった。田安家徳川宗武の七男・[[松平定信|賢丸]](後の松平定信)が幼少の頃から英明を謳われ、後継と目されたが、時の権力者・[[老中]][[田沼意次]]や、子の[[徳川家斉|豊千代]](後の家斉)を推す[[徳川治済]](一橋家当主)らの画策で、[[陸奥国|陸奥]][[白河藩]]主・[[松平定邦]]の養子にさせられたとも言われる。結局家治の後継者は一橋豊千代(家斉)となった。
 
=== 継嗣決定前に将軍が死去したケース ===
[[鎌倉幕府]]3代将軍・'''[[源実朝]]'''の後継問題
: 実朝には実子がないまま、甥の[[公暁]]に暗殺され、公暁もまた亡き者にされたため、源家将軍の血統は途絶えた。実朝の生前から、生母の[[北条政子]]は後継者として[[朝廷]]に、[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]の皇子を将軍として[[鎌倉]]へ迎えたい旨を打診していた。政子の弟で[[執権]]の[[北条義時]]は実朝の死後上洛し、重ねて皇子東下を願い出るが、後鳥羽院に拒否され、次善の策として[[摂関家]]から[[九条道家]]の子・[[藤原頼経|三寅]](後の頼経)を4代将軍として迎え入れることとなった([[摂家将軍]])。その後、[[承久の乱]]を経て執権権力を確立した北条氏は、頼経と子の[[藤原頼嗣|頼嗣]](5代将軍)を[[京都]]へ追放し、念願の[[宮将軍]]・[[宗尊親王]]を得ることになる([[宮将軍]])。
 
室町幕府4代将軍・'''[[足利義持]]'''の後継問題
: 義持の嫡男・[[足利義量|義量]]は病弱であり、5代将軍となって間もなく死去した。しかし義持はその後、後継者を定めず自ら政務を執り続けたため、次代将軍は決まらないままであった。やがて病を得て危篤状態となった義持に、[[管領]][[畠山満家]]や[[護持僧]][[満済|三宝院満済]]らが[[くじ|くじ引き]]によって後継を選ぶことを承諾させ、義持の死後[[石清水八幡宮]]において神籤が催され、義持の弟である[[梶井義承]]・[[大覚寺義昭]]・[[虎山永隆]]・[[足利義教|青蓮院義円]]の4人の候補の中から、義円が選ばれた。義円は還俗して義宣(のち義教)と名乗って6代将軍となる。
 
室町幕府13代将軍・'''[[足利義輝]]'''の後継問題
: 義輝は継嗣のないまま、[[三好三人衆]]や[[松永久秀]]らに襲撃・殺害された([[永禄の変]])。義輝の弟・[[足利義昭|一乗院覚慶]]も松永らに幽閉されたが、[[細川幽斎|細川藤孝]]らに救出されて還俗、義秋(後に義昭)と名乗って[[越前国|越前]]の[[朝倉義景]](後に[[美濃国|美濃]]の[[織田信長]])を頼った。一方、三好三人衆らは義輝の従兄弟である[[足利義栄|義親]](後に義栄)を擁立。義秋に先んじて将軍宣下された。しかし織田信長が義昭を擁立して上洛すると、後ろ盾の三好三人衆が敗れたため[[阿波国|阿波]]に逃れ、死去した。
 
江戸幕府4代将軍・'''[[徳川家綱]]'''の後継問題
: 家綱が後嗣のないまま死去すると、次弟の[[甲府藩]]主・綱重がすでに死去していたこともあり、その下の弟の[[館林藩]]主・徳川綱吉が後継に擬せられた。が、過度に[[儒学]]に傾倒していた綱吉は将軍として不安視され、また大奥の側室が家綱の子を妊娠中だったため、[[大老]][[酒井忠清]]は[[鎌倉時代]]の宮将軍の例にならい、[[後西天皇|後西上皇]]の皇子・[[有栖川宮幸仁親王]]([[有栖川宮]]の祖とされる[[高松宮好仁親王|好仁親王]]の室は[[越前松平家]]出身)を中継ぎとして[[江戸]]に迎えて将軍に据えようとしたとされる(ただし近年は異説もある)。しかし、[[老中]][[堀田正俊]]らの強硬な反対により、綱吉が5代将軍に就任した。
 
江戸幕府7代将軍・'''[[徳川家継]]'''の後継問題
: 6代家宣の跡を継いだ鍋松(家継)はわずか8歳で死去。家継の父・家宣は自らの死に際して「鍋松が嗣子なく薨じた場合は、[[尾張徳川家|尾張]]の[[徳川五郎太|五郎太]](尾張当主[[徳川吉通]]嫡子)か、紀州の長福丸(家重)を嗣子とせよ」と側近の[[間部詮房]]・[[新井白石]]らに遺言したと言われる(異説もある)。尾張吉通はこの時すでになく、幕閣らは[[徳川御三家|御三家]]の[[徳川継友|尾張継友]]・紀州吉宗・[[徳川綱条|水戸綱条]]の中から後継者を選ぶことになり、紀州吉宗を推したが、吉宗は年齢においては綱条、血筋においては継友が優れていると固辞した。結局、家宣未亡人の[[天英院]]の裁定により、吉宗が8代将軍として就任した。
 
 
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