「アメリカ合衆国の独立」の版間の差分

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この出来事は直ぐに[[ボストン虐殺事件]]とよばれるようになった。虐殺の詳細が誇大に広く伝えられ植民地人の感情をイギリスに対する反感に変えていった。この事件は特にマサチューセッツにおけるイギリスと植民地の間の関係を負の循環に巻き込んでいった。
 
[[1767年]]、イギリス政府は[[タウンゼンド諸法]]を通した。これは紙、ガラスおよび茶を含む日用必需品に対する課税を定めたものだった。植民地人は増税に怒りイギリス製品のボイコットを強めた。[[1773年]]、[[サミュエル・アダムズ]]に指導され[[モホーク]]・インディアンの紛争扮装をした一群の男達がイギリスの茶を運んできた船に乗り移り、1万ポンドと見積もられた茶を船から海に投げ捨てた。この事件は[[ボストン茶会事件]]と呼ばれるようになるが、アメリカ愛国者の伝承で重要な位置付けとなった。ただし、このときの茶税は1シリングから3ペンスに下げられたもので、決して税率上げではなかった。ことの根源は、[[1773年]]5月に定めた[[茶法]]で、イギリスが[[東インド会社]]の救済のために茶の輸入を独占し、密貿易を禁じたことであった。
 
イギリス政府は「[[耐え難き諸法]]」として知られる幾つかの法律を成立させて対抗した。この中には、その商品が破壊された茶商人を植民地が確認するまでボストン港を封鎖するという処置が含まれていた。言うまでもなく、これら耐え難き諸法はイギリスに対する植民地の世論を悪化させるだけであった。