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[[天保]]8年([[1837年]])、養父・加藤田新八が[[隠居]]し、加藤田家の[[家督]]を継ぐ。また同年、星野平左衛門より[[楊心流薙刀術|楊心流薙刀術・鎖鎌術]]を学んだ。
 
翌天保9年(1838年)、再び回国修行の旅に出て、[[江戸]]で[[窪田清音]]([[田宮流|窪田派田宮流]])、[[男谷信友]]([[直心影流|直心影流男谷派]])、[[千葉周作]]([[北辰一刀流]])らと試合をする。この回国修行中、平八郎は4[[尺]](約1.2[[メートル|m]])の長[[竹刀]]を使って試合をしていたが、定寸の3尺3[[寸]](約1m)の竹刀を使う千葉周作に敗れたという。初心者への指導書『』
 
武術だけでなく文筆にも堪能で、家督を継いだ天保8年(1837年)から明治7年([[1874年]])まで、毎夜、稽古の後に詳細な日記を記していた。この日記は現在は一部散逸しているが、現存分は『加藤田日記』として久留米の貴重な郷土[[史料]]となっている。また、[[万延]]元年([[1860年]])には、初心者への剣術指導法を記した『初学須知』を著した。この中で、自らの他流試合や剣術指導時の経験を分析して記している。