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'''アナクサゴラース'''('''Αναξαγορας'''、''Anaxagoras''、[[紀元前500年]]頃 - [[紀元前428年]]頃)は、[[古代ギリシア]]の自然哲学者。[[イオニア学派]]の系譜をひくとされる。
 
[[小アジア]]・[[イオニア]]の[[クラゾメナイ]]出身。紀元前480年、[[アテナイ]]に移り住む。アナクサゴラスはイオニアからアテナイに哲学を持ち込んだ最初の哲学者である
 
彼は、物体は限りなく分割されうるとし、この無限に小さく、無限に多く、最も微小な構成要素を、「'''スペルマタ'''」(spermata、種子の意味)と呼んだ。
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[[太陽]]は「灼熱した石」であると説き、太陽神[[アポローン]]に対する不敬罪に問われた。このときは、友人であった[[ペリクレス]]が弁護に立ったため軽微な刑で済んだが、結局アテーナイを去ってラムプサコスに移り、そこで死去することとなった。
 
==生涯==
アナクサゴラスは、当初はいくらかの財産をもっており、地元での政治的成功も見込まれていたようである。ところが彼は、知識の探求の妨げになるとして地位も財産も自ら放棄したと言われている。ヴァレリウス・マキシマムによる伝承によると、彼が長い航海から帰るとその財産が失われていた。それを知った彼は「仮に残っていたとしても、自ら放棄しただろう」と言ったという。ローマ人はこの言葉を「最高の知恵のあり方を示している」と評している。彼はギリシア人であったが、[[イオニアの反乱]]でクラゾメナイが鎮圧されていた間は[[アケメネス朝|ペルシア]]の軍隊にいたようである。
 
壮年期(紀元前464ー461年、36歳頃ー39歳頃)に彼は、当時急速にギリシア文化の中心に成りつつあった[[アテナイ]]に移り住んだ。その地で彼はおよそ30年の歳月を過ごすことになる。アテナイの政治家[[ペリクレス]]は彼を敬愛し褒め称えた。また詩人の[[エウリピデス]]の科学と人間愛に対する熱意は彼に導かれたものである。
 
アナクサゴラスは、イオニアの哲学と科学的探求の精神を、アテナイへともたらした。彼は[[天体]]や[[隕石]]の観察から、宇宙の秩序に対する新しい説を提唱した。彼は[[日食]]、[[月食]]、[[流星]]、[[虹]]そして[[太陽]]に対する科学的な説明を試みた。太陽は燃え盛る巨大な石の塊であり、[[ペロポネソス半島]]よりも大きいという説を唱えた。また彼は、月が太陽の光を反射して光っていると唱えた最初の人物でもある。月には山があるとも唱えており、人が住んでいると考えていた。また彼は、天体は地球から分裂した巨大な石の塊であり、高速の回転によって燃えているのだと主張した。星も太陽と同様に燃え盛る石の塊であるにもかかわらず、私たちがその熱を感じないのは、星々が地球からとてつもなく遠くに離れているためであると説明した。また彼は、地球は平坦であり、その下にある「強い」空気によって支えられて浮かんでいて、この空気の乱れが地震の原因であると考えた。しかしこれらの考察のため、アテナイの人々は彼を不敬の罪で攻め立てるようになる。[[ディオゲネス・ラエルティオス|ディオゲネス]]の伝えるところでは、[[クレオン]]によって不敬の罪で訴えられたとある。一方[[プルタルコス]]によれば、[[ペロポネソス戦争]]での失策を受けてアテナイ市民から批判を受けていた[[ペリクレス]]が、自らの保身のためにアナクサゴラスを[[ランプサクス]]に送ったとある。
 
[[ディオゲネス・ラエルティオス|ディオゲネス]]によると、紀元前450年頃(50歳頃)アナクサゴラスの裁判の際に[[ペリクレス]]が彼を弁護したとあるが、それでもアナクサゴラスは、[[アテナイ]]から[[トローアス]]の[[ランプサクス]]へと隠居せざるを得なかった(紀元前434ー433年、66歳頃)。その地で彼は紀元前428年頃、約72歳でその生涯を終えた。[[ランプサクス]]の市民は彼を追悼して「知性と真理」の祭壇を築き、彼の命日を記念日として長年に渡って供養した。
 
アナクサゴラスは哲学に関する一冊の本を書いたが、6世紀に[[キリキア]]の[[シンプリシウス]]が保存した一部分の断片しか現存していない。
 
==関連項目==