「石見銀山街道」の版間の差分

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== 歴史 ==
[[16世紀]]前半、石見銀山の開発初期は、「鞆ヶ浦道」が利用され、日本海にある鞆ヶ浦が銀の積出港であった。その後、同じ日本海にある温泉津の沖泊が銀の積出港を担うようになり、「温泉津沖泊道」が利用されるようになる。しかし、[[冬]]の日本海は[[モンスーン|季節風]]が強く、[[船]]の航行に支障が多いという問題を抱えていた。その後、[[関原の戦い]]によって[[徳川家康]]が天下を統一してからは、石見銀山が[[江戸幕府|徳川江戸幕府]]の直轄領([[天領]])となり、[[1601年]]([[慶長]]6年)[[8月]]に初代銀山[[奉行]]に着任した[[大久保長安]](おおくぼ ながやす)が、安全な陸路でより大量の銀を運び出せるように、大森から[[中国山地]]を越えて[[尾道糸崎港|尾道の港]]までの[[幅]]7[[尺]](約2.1[[メートル|m]])、35[[里]](約140[[キロメートル|km]])におよぶ瀬戸内海への道を整備し、瀬戸内海にある尾道の港が銀の積出港としての機能を担うようになる。また、尾道に至る途中の宇賀より[[笠岡港|笠岡の港]]に至る「笠岡道」も整備され、同じく瀬戸内海にある笠岡の港も銀の積出港としての地位を確立し、石見銀山からの瀬戸内海への銀の輸送は[[幕末]]まで行われた。
 
== 鞆ヶ浦道 ==