「アルベルト・カイプ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
アイザール (会話 | 投稿記録)
作例追加
アイザール (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
23行目:
== 略歴 ==
[[File:Aelbert Cuyp-The Negro Page.jpg|thumb|left|『黒人の従者』(1652年頃)<br />[[ロイヤル・コレクション]]]]
カイプは1620年10月20日に[[オランダ]]の[[ドルトレヒト]]で生まれた。カイプの一族は芸術の名門家系で、叔父、祖父は[[ステンドグラス]]作家、父ヤーコブ・ヘリッツは肖像画家であった<ref name=gogh_gallery/>。その父に学び、カイプ自身は風景画家となった。最初は[[ヤン・ファン・ホーイェン]]の影響を受けた風景画を手がけたが、1640年代初頭には「オランダのイタリア的オランダ風景と称される一(Dutch-Italianate、親イタリア派、イタリアネートによる影響を受けた画風に転じている。すなわち、[[ローマ]]周辺の平原を思わせるような蜂蜜色の光を多用し、壮大な印象を帯びるようになった<ref name=ngauk>"The National Gallery Companion Guide" by Erika Langmuir, 1994, The National Gallery(London)</ref>。
 
カイプは1658年、ドルトレヒトの名門出の女性コルネリア・ボスマンと結婚した後には、絵画をほとんど描かなくなっている。これは妻の実家が代々熱心な[[カルヴァン派]](改革派)の信者であり、彼女もまた非常に敬虔な女性だったことと、何より裕福な家庭の娘で多額の持参金をカイプにもたらしたからだと考えられている。カイプは妻の影響で教会活動に非常に熱心になっていった。カイプは教会の役員となり、様々な公職に就いた。助祭として活動し、また、改革派協会の長老としてオランダ上級裁判所の一員にもなっている<ref name=nga/>。そのため、絵画に割く時間が少なくなったのである<ref name=ngauk/>。