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'''オスマン帝国'''(オスマンていこく、{{Lang-ota|'''دولتْ علیّه عثمانیّه'''}}、[[ラテン文字化|ラテン文字転写]]: {{Lang|ota-Latn|Devlet-i ʿAliyye-i ʿOs̠māniyye}})は、[[テュルク|テュルク系]](後の[[トルコ人]])の帝室[[オスマン家]]を[[オスマン帝国の君主|皇帝]]とする[[多民族国家|多民族]][[帝国]]で、現在の[[トルコ]]の都市[[イスタンブル]]を[[首都]]とし、最大版図は、東西は[[アゼルバイジャン]]から[[モロッコ]]に至り、南北は[[イエメン]]から[[ウクライナ]]、[[ハンガリー]]、[[チェコスロヴァキア]]に至る広大な領域に及んだ。
 
[[アナトリア半島|アナトリア]](小アジア)の片隅に生まれた小[[ベイリク|君侯国]]から発展した[[イスラム王朝]]であるオスマン朝は、やがて[[東ローマ帝国]]などの[[東ヨーロッパ]][[キリスト教]]諸国、[[マムルーク朝]]などの[[西アジア]]・[[北アフリカ]]の[[イスラム教]]諸国を征服して[[地中海]]世界の過半を覆い尽くす世界帝国たるオスマン帝国へと発展するが、した。17世紀末頃から衰退してその領土は蚕食されて急速に縮小し、挽回を図り対ロシア攻略を主目的に[[第一次世界大戦]]に参戦、しかたが、敗戦により帝国は事実上解体。[[20世紀]]初頭についに最後まで残っていた領土アナトリアから新しく生まれ出た[[トルコ人|トルコ民族]]の[[国民国家]]、[[トルコ|トルコ共和国]]に取って代わられた。
 
しかし、その出現は西欧キリスト教世界にとって「オスマンの衝撃」であり、15世紀から16世紀にかけてその影響は大きかった。宗教改革にも間接的ながら影響を及ぼし、[[ハプスブルク君主国|ハプスブルク帝国]]の[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]が持っていた西欧の統一とカトリック的世界帝国構築の夢を挫折させるその主要原因となった。そして、「トルコの脅威」に脅かされたハプスブルク帝国は「トルコ税」を新設、中世封建体制から絶対王政へ移行することになり、その促進剤としての役割を努めた<ref name="suzuki00130">[[#鈴木(オスマン帝国の解体)|鈴木(2000)‎、p.130]].</ref>。
 
== 国名 ==