「藤原房前」の版間の差分

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[[藤原北家]]の始祖で[[万葉集|万葉]]には藤原北卿とあり、[[大伴旅人]]への答歌等が見られる。政治的力量は不比等の息子達の間では随一であり、[[大宝 (日本)|大宝]]([[703年]])には20代前半にして、[[大宝律令|律令]]施行後初めて[[巡察使]]となり、[[東海道]]の行政監察を行った。その後も兄[[藤原武智麻呂|武智麻呂]]と同時に昇進していたが、[[元明天皇|元明]]朝末期から[[元正天皇|元正]]朝初期にかけての高官の死亡([[穂積親王]]・[[大伴安麿]]・[[石上麻呂]]・[[巨勢麻呂]])を受けて、[[霊亀]]3年([[717年]])に武智麻呂に先んじて[[参議]]となった。これは、参議以上の[[議政官]]は各豪族から1名ずつという当時の慣習を破っての昇進でもあった(房前の昇進により、[[右大臣]]である不比等を加えて、藤原氏の公卿は2人となった<ref>このため、不比等の嫡男を兄の武智麻呂ではなく房前とする学説が出されたこともあるが、これに対して各豪族から1名ずつという慣習が守られていたからこそ、嫡男の武智麻呂が父の生存中は議政官には昇進できなかったとする意見や房前を直前に死去した巨勢麻呂の後任と考えて、当時「東国問題」担当の議政官の枠が存在していたとする説などの反論が出されている。</ref>)。[[元明天皇|元明上皇]]が死の床で祖父・[[藤原鎌足|鎌足]]以来の[[内臣]]に任じて、皇太子[[聖武天皇|首皇子]]の後見役を託したのもその才能を見越しての事であった。なお、当時、内臣は正式な役職ではなく、[[元正天皇]]が首皇子に譲位した時点で任を解かれたとする意見もある。
 
甥の聖武天皇即位後、[[天平]]元年([[729年]])に[[皇親]]勢力の巨頭で政治上のライバルであった[[長屋王]]を失脚させ([[長屋王#長屋王の変|長屋王の変]])、[[藤原四兄弟#藤原四子政権|藤原四子政権]]の中心人物として、[[藤原四兄弟|他の兄弟]]とともに政権を主導した。その後、長兄である武智麻呂(正二位・[[左大臣]])との兼ね合いから、正式な位階・役職としては正三位・参議が極官のまま、他の兄弟に先んじて[[天然痘]]に倒れた。
 
房前の子孫である[[藤原北家]]は、藤原四兄弟の子孫[[藤原四家]]の中で最も繁栄した。