「ヘン・サムリン」の版間の差分

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1978年[[12月2日]]、ベトナム国境付近のカンボジア領内において、反ポル・ポト抵抗組織「[[カンプチア救国民族統一戦線]]」の結成式が執り行われ、ヘン・サムリンが戦線議長に就任した。12月25日、ベトナム軍とともにカンボジアに進撃した。翌[[1979年]]1月5日から、[[コンポンチャム州]]ミモトにおいて、かつての[[インドシナ共産党]]の流れを汲む[[カンプチア人民革命党]]の「再建大会」(第3回党大会)が開催され、7日には7人からなる党常任委員会の委員に選出された。同日、首都[[プノンペン]]が陥落し、翌8日にはヘン・サムリンを議長とする人民革命評議会の設立を発表。10日、「[[カンプチア人民共和国]]」の樹立を宣言した。
 
[[1981年]]5月、第4回党大会において党政治局員に選出され、党内序列第2位となる<ref>[http://d-arch.ide.go.jp/browse/pdf/1981/201/1981201REF.pdf 『アジア動向年報』1981年版]、237-238ページ。同資料によると、政治局序列は2位で、中央委員会序列は3位となっている。</ref>。6月、第1回国会において新憲法が採択され、新設の国家評議会議長(国家元首)に就任。同年、[[ペン・ソバン]]首相兼党書記長が失脚すると、12月2日の第4期党中央委員会第2回総会において、後継の書記長に選出された。
 
議長就任後も[[タイ王国|タイ]]国境でクメール・ルージュおよび他勢力からの武力抵抗に直面したほか、ベトナム軍の支援を受けた政権として多くの国から政府承認を得られず、[[国際連合|国連]]の議席もクメール・ルージュらの「民主カンプチア連合政府」に握られたままであった。
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* [[カンボジア人民党]]
 
{{先代次代|[[ファイル:Flag of Cambodia.svg|25px]] [[カンボジア|カンボジア王国]]<br />[[国民議会 (カンボジア)|国民議会]]議長|[[2006年]] - |[[ノロドム・ラナリット]]|現職}}
{{先代次代|[[ファイル:Flag of the State of Cambodia.svg|25px]] [[カンプチア人民共和国|カンボジア国]]<br />国家評議会議長|[[1989年]] - 1992年?|改組|廃止}}
{{先代次代|[[ファイル:Flag of the People's Republic of Kampuchea.svg|25px]] [[カンプチア人民共和国]]<br />国家評議会議長|[[1981年]] - [[1989年]]|設置|改組}}
{{先代次代|カンプチア人民革命党<br />中央委員会書記長|[[1981年]] - [[1991年]]|[[ペン・ソバン]]|[[チア・シム]]<br />([[カンボジア人民党]]議長)}}