「乾正成」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
28行目:
 
== 来歴 ==
[[諱]]は初め信成(のぶしげ)、のち藩主[[山内容堂|山内豊信]]の諱を避け、正成と改める。幼名は魚之助。榮六(えいろく)、左賀江(さかえ)、丈右衛門、左近兵衛と称す。土佐藩[[馬廻]]格で、家格は知行300石。
 
*[[1807年]]4月3日([[文化 (元号)|文化]]4年2月26日)、惣領御目見仰せ付けられる。
34行目:
*痩せ気味の退助と違い、力士のような30余貫<ref>『板垣退助君傳記』による。</ref>の体格であった。
*[[1819年]]([[文政]]2年)<ref>18歳の頃と言われる。</ref>頃、藩主がお忍び駕籠で領内視察をしていたのに気づかずに、乗馬したまま横切って泥を掛ける失態が噂となったため、改易となるのではないかと気に病んで乱心気味<ref>一説には難を免れるため乱心を装ったとも言う。</ref>の振る舞いがあったという。
*[[1843年]]([[天保]]14年)、子女による不品行の責任を問われ、家禄270石に減ぜられる。
*[[1860年]]4月30日([[万延]]元年閏3月10日)<ref>死亡日については、土佐藩届出文書、譜類は全て「閏3月10日」であるが、墓碑・過去帳類は「閏3月3日」である。</ref>卒去。年59歳。土佐国土佐郡薊野山に葬る。