「自由党 (日本 1881-1884)」の版間の差分

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翌[[1881年]]、[[国会開設の詔]]が出たことを受けて国会期成同盟を基盤とした政党作りの作業が進められるが、やがて実務責任者であった[[林包明]]ら地方出身者の集団と[[沼間守一]]ら都市出身者の集団の間で確執が生じ、沼間らは離脱した(後に[[立憲改進党]]に合流)。[[10月18日]]に地方出身者と反沼間派の都市出身者によって創立大会を開催、29日に盟約・規約・人事などを定め、初代総理([[党首]])は板垣、副総理に[[中島信行]]、常議員に[[馬場辰猪]]・[[末広鉄腸|末広重恭]]・[[後藤象二郎]]・[[竹内綱]]、幹事に林包明・[[山際七司]]・[[内藤魯一]]・[[大石正巳]]・[[林正明]]が就任した。[[フランス]]流[[急進主義]]の影響のもと、[[一院制]]、[[主権在民]]、[[普通選挙]]などを掲げた。
 
[[自由民権運動]]の担い手として全国に組織を広げるも、[[集会条例]]による弾圧や[[1882年]]の[[板垣遭難事件]]、同年秋の板垣外遊の是非を巡る内紛による馬場・末広・大石の離党、更に板垣の留守中に自由は、急進派貧農むすびついて(激派)、を形勢して様々な事件を起こす。その後、1882年の[[福島事件]]、翌年の[[高田事件]]が勃発して弾圧が強化、更に過激な行動に奔るという悪循環となる。更に同じ民権派の立憲改進党との対立も党内の混乱に拍車をかけた。

帰国した板垣はこの現状を見て党の先行きに不安を感じ、解党するか党再建のために10万円の政治資金を調達するかのいずれかの選択を提議した。だが、[[松方デフレ]]による有力な資金提供者であった豪農層の没落が相次ぎ資金集めに失敗、[[1884年]]3月に総理権限を強化して板垣の下に党員の結集を図るが執行部は地方の急進派を押さえきれなかった。そして、9月の[[加波山事件]]によって解党論が高まり、[[10月29日]]に解党大会を開いた(なお、当時獄中にいた[[星亨]]が獄中から解党反対の[[電報]]を打って板垣からは「バカイフナ(馬鹿言うな)」と返電された)。

なお、急進派による最大の事件(事実上の反乱)である[[秩父事件]]はその直後に発生している。
 
== 関連項目 ==