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'''乃木 静子'''(のぎ しずこ、[[安政]]6年[[11月6日 (旧暦)|11月6日]]([[1859年]][[11月29日]]) - [[大正1912年]]元年([[1912年大正]]元年)[[9月13日]])は、[[幕末]]・[[明治]]期の[[女性]]で、[[陸軍大将]]・[[乃木希典]]の妻。
 
 
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[[日露戦争]]が開戦し、出征する希典(出征時は[[陸軍中将]])・勝典・保典(二人とも出征時は既に[[陸軍少尉]])に[[銀座]]の高級化粧品店・[[資生堂]]で1つ9円もする[[香水]]2つと8円の香水1つの計3つを購入し、贈る。当初、静子は9円の香水を3つ購入して3人にそれぞれ贈るつもりだったが、9円の香水が2つしかなかったため、9円の香水を勝典と保典に、8円の香水を希典に贈った。当時の9円というのは、成人女性が精一杯働いて稼ぐことの出来る平均給与の約2か月分に相当する。静子がそこまでして高価な香水を贈ったのは、もし戦死した後、[[遺体]]から異臭が放たれれば夫と愛息子が不憫この上ないという妻として、母親としての哀しいまでの家族を想いやる愛の表現であった。
 
明治37年([[1904年]](明治37年)5月27日、勝典が[[金州南山]](通称:'''金山'''または'''南山''')で銃弾に打たれて腸を損傷、向こう側が丸見えになるほどの風穴が開き、[[軍医]]による手術・治療を受けるも出血多量で戦死した(死後、1階級特進で[[陸軍中尉]]に昇進)。この後、勝典の戦死の知らせを聞いた静子は深い哀しみに暮れ、三日三晩泣き続け、一説には血の涙を流したともいわれる(恐らくは血を流しているかのように見えるほど赤く泣き腫らした顔を指しているものと想われるが、実際に血の混じった涙を流したと記す文献もあり、真偽は不明)。
 
1904年(明治37年(1904年)11月30日、苦戦を強いられていた[[帝国陸軍]]は第3軍司令官・希典と[[児玉源太郎]][[陸軍大将|大将]]の戦略で[[203高地]]を進軍していたが、この時に保典が砲弾に撃たれたショックで岸壁から滑落、岩場に激突し、頭が砕けて戦死した(即死。保典も勝典と同じく、1階級特進で陸軍中尉]昇進)。不思議なことに、保典が戦死したという知らせを聞いた時、静子は何故か勝典が戦死した時のようには泣き崩れず、落ち着いた様子で戦死の事実を受け入れたという。一説には保典が戦死する事を[[予知]]していたのではないかとも言われる。
 
全ての子供を先に亡くした静子は、そのショックから生きた感じを見受けられないような外見になっていたといわれる。晩年は[[盆栽]]などをわずかな楽しみとしたといわれる。
 
明治45年([[1912年]](明治45年)7月、[[明治天皇]]が[[糖尿病]]により崩御、その後の1912年(大正元年(1912年)9月13日、明治天皇を追って[[殉死]]した希典と共に乃木邸(現在の[[東京]]・[[港区 (東京都)|港区]][[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]にある[[乃木神社]])にて胸を突き死亡する。[[享年]]54(満52歳)。
 
== 性格 ==
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== 関連項目 ==
=== 関連作品 ===
* [[宿利重一]] 『乃木静子』 (春秋社、1941年(昭和16年など)
* 福岡徹 『華燭〜乃木静子の生涯〜』 (文藝春秋、1971年〔昭和46年
* [[渡辺淳一]] 『静寂の声 乃木希典夫妻の生涯』 (全2巻、[[文藝春秋]]、のち[[文春文庫]])。1990年に[[テレビ朝日]]でドラマ化、主演[[緒形拳]]・[[竹下景子]]。
* [[司馬遼太郎]] 『[[殉死 (小説)|殉死]]』 現在は[[文春文庫]]ほか