「長岡謙吉」の版間の差分

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その後に罪を許されたが、やがて脱藩して長崎に赴き、[[坂本龍馬]]の下で海援隊に参加した。龍馬は長岡の才能を高く評価し、海援隊の通信文書の作成など、事務処理のほとんどを長岡に一任していたという。[[慶応]]3年([[1867年]])、夕顔丸に坂本龍馬や[[後藤象二郎]]らと同船し、大政奉還後の龍馬の構想をまとめた「[[船中八策]]」を起草した。また、長崎における[[キリシタン]]問題を論考してまとめ上げた「閉愁録」を出版している。
 
同年、龍馬が暗殺されると、海援隊の2代目隊長に選ばれた。[[明治維新]]後は[[三河県 (日本)|三河県]]知事、[[大蔵省]]、[[工部省]]などに勤務したが、明治5年(1872年)に東京にて若くして死去した。享年39。墓は増上寺の塔頭の一つ、安養院にある。
 
「船中八策」と関連する「藩論」の著者でもある。