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'''柳 虯'''(りゅう きゅう、[[501年]] - [[554年]])は、[[中国]]の[[西魏]]の[[歴史家]]・[[政治家]]。[[字]]は仲蟠、または仲盤。[[本貫]]は[[河東郡]][[解県]]。[[柳慶]]の兄にあたる。
 
== 経歴 ==
柳僧習の子として生まれた。若くして学問を好んだが、[[五経]]は概略に通じるのみで、諸子や史書を広く読み、文章を得意とした。[[北魏]]の[[孝昌]]年間、柳虯は揚州刺史の李憲によって秀才に推挙され、兗州刺史の馮儁に召し出されて府主薄となった。[[樊子鵠]]が吏部尚書となり、その兄の樊義が揚州刺史となると、柳虯は揚州中従事として召され、鎮遠将軍の位を加えられた。待遇が良くなかったため、官を棄てて[[洛陽]]に帰った。まもなく戦乱を避けて陽城に隠棲した。
 
[[537年]]、西魏の馮翊王[[元季海]]と領軍の[[独孤信]]が洛陽に駐屯した。当時洛陽周辺は荒廃していて、人物は極めて少なく、ただ柳虯が陽城におり、裴諏が潁川にいるのみであった。独孤信は柳虯らを召しだし、柳虯を行台郎中とし、裴諏を都督府属として、ともに公文書をつかさどらせた。ときに「北府の[[裴諏之|裴諏]]、南省の柳虯」と並び称された。[[538年]]、[[長安]]に入った。[[宇文泰]]は官に任じようとしたが、柳虯は母の老病を理由に辞退し、宇文泰はこれを許した。まもなく独孤信の下で開府従事中郎となった。独孤信が隴右に駐屯して秦州刺史となると、柳虯は二府司馬となった。後に丞相府記室となり、美陽県男に封じられた。
 
柳虯は史官が密室で善悪を評価するのはよくないと主張した。史官の記事については、朝廷で審議した後で正式に記録させるよう進言し、これは実行にうつされた。