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'''人間学'''(独:Anthropologie 英:anthropology)は、一般に「[[人間]]とは何か?」、「人間の本質とは何か」という問いに哲学的な思考と実証的な調査で答えようとする[[学問]]で、通常は[[哲学]]の一部門として、'''哲学的人間学'''(独:Philosophische Anthropologie、英:philosophical anthropology、仏:anthropologie philosophique)の名で呼ばれることもあるが、[[民族学]]、[[文化人類学]]、[[生物学的人間学]]など、他の諸科学にもその学問分野での人間学を語る人たちも少なくない。
 
== 概念 ==
日本語のいわゆる「人間学」はドイツ語の[[de:Anthropologie|Anthropologie]]の訳語であり、ドイツ語圏ではこの語はかつては人間に関する哲学的な研究を意味するものであった。この語を「人類学」と訳する者もいるが、英米圏のAnthropologyが人類を生物学的に研究する[[自然人類学]]のみならず、人類の文化的社会的な側面を研究する[[文化人類学]]を含むことから、20世紀に興った哲学の一部門を「哲学的人間学」(独:Philosophische Anthropologie、英:philosophical anthropology、仏:anthropologie philosophique)と呼び、人間学と人類学を区別するのが通例である<ref>清水、「人間学」</ref>。
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フランスの[[ティヤール・ド・シャルダン]]、[[ガブリエル・マルセル]]らの人間学は、この流れとはまた別の出自のものである。
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哲学史における「人間」という問題は極めて重要な位置を占めている。人間とは何かという問いかけは、古代から問われつづけてきた問題であるが、長い間それは少なからず、哲学や宗教に限らず、[[宇宙]]や[[神]]を通じてでのみ考えられることであった<ref>清水『哲学的人間学』</ref>。
 
人間学が「学」として現われるためには、近世哲学の出発点である[[ルネ・デカルト]]による[[自我]]概念の発見以降の、18世紀の[[啓蒙思想]]まで待たねばならなかった。自身が自己に[[責任]]を持って考え行動するという考えが広まっていくとき、それは一人の独立した存在としての人間であるという考えを普及させていくことにほかならず、そこには大元である「(一人の独立した存在としての)人間とは何か?」という問いかけが潜んでいた。このような背景から、次第に人間学が姿を現しはじめたのである。
 
[[イマヌエル・カント]]は、この「人間学」の立場を明確にした代表的な哲学者でもある。カントは、哲学には、「わたしは何を知ることができるのだろうか」(Was kann ich wissen?)、「わたしは何をすべきなのであろうか」(Was soll ich tum?)、「わたしは何を望むのがよいのだろうか」(Was darf ich hoffen?)、「人間とは何だろうか」(Was ist der Mensch?)という4つの問題に対応する4つの分野があるとした上で、最後の問題について研究する学を「人間学」であるとした。高坂正顕は、カント哲学の全体を人間学の大系であるとしており、以後、カントは「人間学」を自身の哲学の根本のひとつにしていたという見方がされるようになった<ref>[http://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/sc/metadata/1448 西田雅弘『人間学としてのカント哲学』(下関市立大学論集36巻1号127頁)]</ref>。
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[[19世紀]]、「[[歴史主義|歴史の世紀]]」と呼ばれる時代には、[[歴史学]]のみならず、[[化学]]、[[生理学]]から[[地理学]]、[[民族学]]、[[民俗学]]、[[心理学]]などが発展し、人間についてのさまざまな情報が溢れ返るようになった。[[チャールズ・ダーウィン]]、[[ジークムント・フロイト]]の名前もその中にある。
 
以上のような流れの中で、ダーウィンの[[進化論]]が当時の学界を震撼させ、人間の動物的で惨い部分が次第に見られていくようになった。[[フリードリヒ・ニーチェ]]はダーウィンを明確に否定したが、その思想の一部を影響を受け、人間はサルから[[超人]]への綱渡り(発展途上)であると説いた(このニーチェによって「ディオニソス的人間」という哲学的人間学に繋がっていく脱人間中心主義の立場が提唱されたともいえる)。
 
=== 哲学的人間学の成立 ===
[[1928年]]、[[ダルムシュタット]]の郊外にあるカイゼルリンク伯爵<ref>自身も『哲学者の旅日記』という著書のある啓蒙的な哲学者、同時代人の[[ルドルフ・オイケン]]は、今でこそ忘れられているが、通俗哲学論で[[ノーベル文学賞]]を与えられた、そういう時代だった。</ref>の「英知の学校」で、[[マックス・シェーラー]]が招聘講演として「宇宙における人間の位置」と題する講演を行い、人間学研究の提言をしたのが、この問題意識の嚆矢だったといわれている。彼によれば、現代はわたしたちが人間とは何かということを全く知らず、かつ、そのことを熟知している時代であるとされ、哲学的人間学は、人間が自身に抱く[[自己認識|自意識]]の歴史について、その自意識が突然に増大し続けている現代の事態を[[解釈]]するための学問とされる。この問題について、彼はその著著『人間と歴史』および『包括的人間学からの断章』において、人間の自己像の解釈を、「宗教的人間学」、「ホモ・サピエンス」、「ホモ・ファーベル」、「[[生の哲学]]における人間学」、「要請としての無神論における人間学」の五つに類型化し、それぞれに対して同等の現代的アクチュアリティを要求することによって答えようとした。
 
この講演は、かなりの反響をドイツ語圏の哲学、文化的な世界にもたらし、シェーラーの提言の直後にでた[[ヘルムート・プレスナー]]の『[[有機物の諸段階と人間―哲学的人間学入門]]』は、既にこの言葉を副題に取り込んでおり、その後は[[アルノルト・ゲーレン|アーノルト・ゲーレン]]の『哲学的人間学』、『人間学の探究』、『人間 その本性および世界における位置』という三部作がこの方面の最大の業績のひとつになる。
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[[マルティン・ハイデッガー|ハイデッガー]]も[[カール・ヤスパース|ヤスパース]]もそれぞれ、『世界像の時代』、『[[存在と時間]]』(哲学的人間学への言及は少なくない)や『現代の精神的状況』で賛否の態度を示した。ハイデガーは哲学的人間学には否定的であり、やがて離れていった。
 
当時のドイツの動向は、日本国内では[[三木清]]の『構想力の論理』の中にも紹介がある。国内で、この思想の流れの中で人間学を模索したのは、京都学派の[[高山岩男]]の『哲学的人間学』が代表的である。彼の後、この思想的な手がかりは、教育学の世界に引き継がれ、1970年代、ドイツで[[オットー・フリードリッヒ・ボルノウ]]らを中心に[[ディルタイ]]系の[[教育学]]研究者の間で、教育人間学、人間学的教育学を巡る議論が活発化し、人間学への関心が国内でも再炎した。たとえば、[[森昭]]の『教育人間学』を筆頭に、下程勇吉などにこの方面の著作がある。
 
20世紀に入って、それまで構想されていた理想的な人間社会が無残に打ち砕かれ、社会と国家、科学技術の発展で我々は「人間不在」というあらたな問題を直視せざるを得ない状況となり、改めて人間として生きる意義について問われ、[[実存主義|実存思想]]が一時流行したりしたが、現代では、この人間学の問題は既に哲学という学問だけでは解決できない事態になっている。そのため、経験科学としての[[生物学的人間学]]、ドイツ系の民族学ないしアングロサクソン系の文化人類学は哲学的人間学とは異なる別のアプローチからこの問題の解決を目指そうとしている。
 
現代では、シェーラーの示した「ホモ・ファーベル」と「ディオニソス的人間」という人間像は、進化論と生の哲学が結び付くことによって、伝統的な西洋中心の理性的な人間像の反省を迫ったが、それを超えて、経験科学的な人類生物学的研究と結び付くことによって「欠陥存在としての人間」という全く新たな人間像が作り出されてしまった。哲学的人間学の現代的な評価はいまだ定まったものではないが、例えばヴァルター・シュルツは、哲学的人間学の根本規定の無意味化について触れている。