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'''オロス'''('''Urus''', [[ペルシア語]]: اوروس خان Ūrūs Khān 〜 اُرس خان Urus Khān<ref>ティムール朝時代のペルシア語資料では、オロスは اوروس Ūrūs 〜 اروس Urūs 〜 اُرس Urus と表記に揺れがある。『[[世界征服者史]]』や『[[集史]]』に現れる地名 اوروس ūrūs とは[[ルーシ]]のことであり、『[[元朝秘史]]』(巻12)では斡魯思と書かれ、orus〜orosと読まれた。そのため、彼の名前はアラビア文字表記からモンゴル語読みが推測され、日本語文献ではおおよそ「オロス」と読まれるようである。</ref>、生没年 ? - [[1377年]])は、[[バトゥ]]家断絶後の[[ジョチ・ウルス]]の[[ハーン|ハン]](在位 ? - 1377年)で、[[ジョチ]]の十三男[[トカ・テムル]]の子孫である。15世紀の『ムイーン史選(Muntakhab al-tavārīkh-i Muʿīnī)』の著者ムイーヌッディーン・ナタンズィーなど後代の歴史家によって、白帳(āq ūrda)ハンの第6代とされる。また、[[ティムール]]の伝記であるシャラフッディーン・アリー・ヤズディーの『勝利の書(Ẓafar Nāma)』では、オロスはジョチ・ウルスの当主としてはジョチから数えて第20代。16世紀初頭だがホーンダミールの歴史書『伝記の伴侶(Ḥabīb al-Siyar)』でも同じく第20代に数えられている<ref>赤坂恒明『ジュチ裔諸政権史の研究』(風間書房, 2005年2月)p. 294-295</ref>。
 
== 出自 ==
『[[集史]]』ジョチ・ハン紀によれば、ジョチの十三男トカ・テムルにはバイ・テムル、バヤン、ウルン・テムル、キン・テムルの4人の男児がおり、この三男ウルン・テムル( اورنك تيمور Ūrunk Tīmūr)にはさら4人の男児、アジキ( اجيقی ajīqī/またはアジク اجق ajiq)、アリクリ(アズィクリ)、サリジャ、キラキズがいた。同書で長男アジキにはバフティヤール( بختيار bakhtiyār)という男児のみが言及されているが、[[ティムール朝]]時代に編纂された系図資料『高貴系譜』(Mu`izz al-Ansāb)によると、アジク(アジキ)にはバフティヤールの他にバーキーク( باقيق bāqīq?/またはマーキーク? ماقيق māqīq?)という兄弟が記されており、このバーキークの息子テムル・ホージャ( تيمور خواجه tīmūr khwāja)の息子バーディク( بادق bādiq/ يادق yādiq)の息子がオロスである。つまり、オロスは14世紀後半に多数いたトカ・テムル家の王族たちのうち、ウルン・テムル裔のアジキ家に属していたことになる。
 
== 略歴 ==
バトゥ家の実質最後のハンであった第13代君主[[ベルディ・ベク]]が死去した14世紀半ば以降、ジョチ・ウルスの二つの根幹であったバトゥ家、オルダ家が相次いで断絶し、ジョチ・ウルスは宗主位を巡って激しい後継者紛争が続いた。オロス・ハンはオルダ家が統率していたジョチ・ウルス左翼を構成するジョチ裔トカ・テムル家の王族のひとりであり、オルダ家断絶後のジョチ・ウルス左翼の地域で徐々に頭角を現してウルスの再編を行っていた。
 
[[1368年]]、[[シグナク]]でハン位につくと、バトゥ家と[[オルダ・ハン|オルダ]]家が断絶して以来混乱の続くジョチ・ウルスを統合し、ウルスの左右両翼の再編を目指し、[[1372年]] [[サライ (都市)|サライ]]を占領する。しかし[[ヴォルガ河]]流域を支配していた[[ママイ (キヤト部)|ママイ]]の勢力とは争わず、[[シルダリヤ]]方面に帰還する。[[1376年]]、[[ティムール]]の支援を受けた[[トクタミシュ]]の数次にわたる侵攻を受ける。以前、オロスは同じトカテムル家ウルン・テムル裔のサリチャの曾孫でマンギシュラク(カスピ海東岸)の長官トイ・ホージャと対立し、彼を殺害していた。ティムールと結んだトクタミシュはこのトイ・ホージャの息子であり、オロスはトクタミシュを年少の所以をもて助命したが、トクタミシュは脱走と帰順を繰り返した後にティムールの元に亡命していた。1度目は子のクトゥルク・ブカに迎え撃たせ、トクタミシュの撃退には成功したものの、クトゥルク・ブカが戦死を遂げる。2度目の侵攻では長子のトクタキヤが敗北するも、トクタミシュを負傷させ撤退に追い込んだ<ref name="aiha71">S.G.クシャルトゥルヌイ,T.I.スミルノフ「カザフスタン中世史」『アイハヌム2003』、71頁</ref>。3度目はティムールが自ら兵を率いて攻めて来たが、オロスは部隊を[[オトラル]]に派遣し、オロス自身はシグナク(サウランとの説も)を固めて持久戦に持ち込んだ。冬の到来によって両者は休戦し、ティムールは[[シャフリサブス|ケシュ]]に帰還する。
 
翌[[1377年]]春、ティムールの再度の侵攻を前にして病死する。この侵攻を迎え撃ち、ウストユルト台地で戦ったが、その際の対陣中に没した。死因については自然死、あるいは負傷がもとで戦死したとする説ある<ref name="aiha71"/>
 
祖父のエルゼンにならってシグナクに多数の建築物を寄進しているほか<ref name="aiha71"/>、[[ヒジュラ暦]]776年([[1374年]]-[[1375年]])、ヒジュラ暦779年(1377年-[[1378年]])にサライで鋳造した貨幣が現存する。
 
== 子女 ==
子女はトクタキヤ、クトゥルク・ブカ、トゥグルク・プーラード、クユルチュク、トクタ・プーラード、サイイド・アフマド、サイイド・アリーの七男と、メングリ・ベク、シカル・ベク、スディ・ベク、イーラーン・ベク、メングリ・トゥルカンの五女が記録に残っている。
歴史書『ヌスラト・ナーメ』に記録されているオロスの子女は以下の通りである<ref name="aiha71"/>。
 
*男子
:[[トクタキヤ]]
:クトゥルク・ブカ
:トゥグルク・プーラード
:クユルチュク
:トクタ・プーラード
:サイイド・アフマド
:サイイド・アリー
 
*女子
:メングリ・ベク
:シカル・ベク
:スディ・ベク
:イーラーン・ベク
:メングリ・トゥルカン
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* 川口琢司「キプチャク草原とロシア」(『[[岩波講座世界歴史|岩波講座 世界歴史]]11―中央ユーラシアの統合』収録, 岩波書店.1997年11月)
* S.G.クシャルトゥルヌイ,T.I.スミルノフ([[加藤九祚]]・訳)「カザフスタン中世史」『アイハヌム2003』([[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]] [[2003年]])
* 赤坂恒明『ジュチ裔諸政権史の研究』(風間書房, 2005年2月)