削除された内容 追加された内容
HATO (会話 | 投稿記録)
m 施設:上南中を失念。
HATO (会話 | 投稿記録)
m →‎歴史: 星が丘の由来
24行目:
[[1941年]]([[昭和]]16年)[[4月29日]]に[[高座郡]][[上溝町]]は同じ郡の[[座間市|座間町]]ほか6村と合併して'''高座郡相模原町'''となり、旧上溝町の区域は同町の'''大字上溝'''となった。当時の大字上溝(旧上溝町)は台地上段にも広がり、現在の市役所付近<ref>ただし市役所自体の所在地は旧[[相原村]]の大字[[清兵衛新田]](現・中央二丁目)である。</ref>や[[淵野辺公園]]の区域までその領域としていた。
 
旧上溝町と旧相原村および旧[[大野村 (神奈川県)|大野村]]にまたがる台地上段では、合併に先立つ1930年代末から[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の施設を核とする「[[相模原市#軍都計画|軍都計画]]」が立案され、その[[都市計画]]に基づいて[[神奈川県]]が主体となって[[区画整理事業]]が進められていた。[[1945年]](昭和20年)の敗戦により事業は一時中断されたが戦後も継続され、[[1950年]](昭和25年)に完了した。しかし「軍都」としての発展は挫折し、区画整理事業完了後も多くの区域がそのまま農地として利用されていた。その中で星が丘地区には軍都計画の下で[[相模陸軍造兵廠]](現・[[在日米軍]][[相模総合補給廠]])の工員住宅として計画された住宅団地が建設され<ref>「星が丘」という地名は陸軍の徽章の星に由来するとされている。</ref>、旧[[陸軍機甲整備学校]](在日米軍[[キャンプ淵野辺]]を経て、現[[淵野辺公園]]その他)に隣接する区域には戦後、[[満州]]からの引揚者が入植して「弥栄荘」という集落がつくられた<ref>現町名の「弥栄」はこれに由来する。</ref>。このほか当大字内では戦後、上溝団地や横山団地など県や市による住宅団地の建設が相次いだ。区画整理地域が「新市街」としての様相を見せ始めるのは、町役場(現市役所)などの行政機関が上溝旧市街等から移転してきた1950年代半ば以降、特に[[東京都|東京]]や[[横浜市|横浜]]の[[ベッドタウン]]として宅地化の波が及んだ1960年代以降である。この際、「人口10万」を構想した「軍都相模原」の基盤として整備された街路網や水道設備等は以後急激に流入した人口を受け入れる上で有効に機能した。
 
市街化の進展とともに相模原市は[[住居表示]]事業に着手し、[[1964年]](昭和39年)[[5月1日]]に最初の実施区域として市役所を中心とする当大字および隣接する大字清兵衛新田の各一部から「中央」という新町名が編成されて当大字から分離した。以後、住居表示の実施区域は順次拡大され、その都度新町名が編成されて当大字から分離していった。[[1974年]](昭和49年)までにキャンプ淵野辺(同年に返還)などを除いた上段のほぼ全域が当大字から分離し、[[1984年]](昭和59年)にキャンプ淵野辺跡地に住居表示が実施されて台地上段から「大字上溝」は消滅した。