「PWFヘビー級王座」の版間の差分
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これを受け、全日本プロレスでは力道山ベルトを「世界ヘビー級選手権」のベルトとして使用することを決め、その王座争奪戦を開催した。
この新設王座争奪戦は、ジャイアント馬場と[[ブルーノ・サンマルチノ]]、[[テリー・ファンク]]、[[アブドーラ・ザ・ブッチャー]]、[[ザ・デストロイヤー]]、[[ウイルバー・スナイダー]]、[[ドン・レオ・ジョナサン]]、[[パット・オコーナー]]、[[ボボ・ブラジル]]の
そして、世界ヘビー級王座をPWF認定世界ヘビー級王座と改め、馬場をその初代王者に認定した。これがPWFヘビー級王座の始まりである。途中[[1974年]]に、[[NWA (プロレス)|NWA]]の勧告により「世界」の文字を外してPWFヘビー級王座となった(NWAは傘下の各団体に「[[NWA世界ヘビー級王座]]以外の世界王座を作ったり認定したりしないこと」を求めているため)。
初代王者の馬場は[[ザ・シーク]]、ブッチャー、オコーナー、[[ドリー・ファンク・ジュニア]]、[[ハーリー・レイス]]、[[フリッツ・フォン・エリック]]、[[ジン・キニスキー]]、[[ペドロ・モラレス]]、[[ビル・ロビンソン]]、[[プロフェッサー・タナカ]]、[[ディック・マードック]]、[[ブラックジャック・マリガン]]、[[クリス・マルコフ]]、[[ウィリアム・アフィルス|ディック・ザ・ブルーザー]]、[[
1978年6月に[[キラー・トーア・カマタ]]との防衛戦で、カマタの[[反則行為#プロレス|反則]]に怒った馬場が反則でやり返して大暴走、反則負けで王座転落。それまでアメリカでも日本でも「反則やリングアウトでは王座は移動しない」となっていたのを馬場が「反則負けでも負けは負け」と反則・リングアウトでの王座移動を認めるようにしていたのだが、それが裏目に出た形となった。カマタは初防衛戦でロビンソンに敗れ、ロビンソンからブッチャーへ王座は移動、1979年2月に馬場は[[シカゴ]]で王座奪回に成功する。
第5代王者時代の馬場は、防衛戦のペースこそ低下したもののブッチャー、[[ブルーザー・ブロディ]]、カマタ、ロビンソン、[[タイガー・ジェット・シン]]、[[テリー・ゴディ]]ら
1982年10月に馬場はレイスに敗れて王座転落するも[[1983年]]2月[[セントルイス]]で奪還。しかし9月にはハンセンに敗れまたも王座から転落する。この頃からはレイス→馬場→ハンセン→馬場→ハンセン→[[長州力]]→ハンセン→[[天龍源一郎]]→ハンセン、と、1年前後の在位の王者が続くことになる。1989年4月18日、PWF・UN王者のハンセンがインター王者の[[ジャンボ鶴田]]と統一戦を戦い、勝った鶴田が[[三冠ヘビー級王座|三冠統一ヘビー級王者]]となる。
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