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幕府の老中は、[[大目付]]・[[町奉行]]・[[遠国奉行]]・[[駿府城#駿府城代|駿府城代]]などを指揮監督し、[[朝廷]]・[[公家]]・[[大名]]・[[寺社]]に関する事柄、知行割りについてなどを統轄した。定員は4人から5人で、普段の業務は月番制で毎月1人が担当し、江戸城本丸御殿にあった御用部屋と呼ばれる部屋を詰め所・執務室とし、重大な事柄については合議した。また、外部に漏れてはいけない重要なことを話し合う時には[[盗聴]](当時は盗聴器はないので床下や[[天井裏]]、外からの盗み聞き)をされないよう、更に文書として証拠も残らない最善策として御用部屋に置かれていた灰の上に筆談をした。実際には担当ではない者も月番の者と同じように、重要な事柄を合議・処理をしたりしていた。また、将軍の命令を[[老中奉書]]で大名に下達した。
 
将軍を[[首相]]に喩えて、老中を[[閣僚]]と看做すような比喩があるが、上記の通り実際にはかなり異なる。老中は政務全般を担当し、月番交代ないし協議しており、現在の閣僚のような政務の分掌は行っていない。江戸幕府の制度では政務の分掌は各[[奉行]]レベルによってなされた。しかしながら[[延宝]]8年([[1680年]])には1人を勝手掛老中とし、財政を専任させた。これを'''老中首座'''ともいい老中の筆頭として政治を行った。この他、時によって西の丸老中を置いた。西の丸老中は幕政には関与せず専ら西の丸に居住する[[大御所 (江戸時代)|大御所]]や将軍嗣子の家政を総括していた。[[慶応]]3年([[1867年]])に[[幕末]]の幕政改革で月番制を廃止し、国内事務・会計・外国事務・陸軍・海軍の5人の[[総裁]]がそれぞれ専任する体制となり、現在の閣僚のような政務の分掌が行われた。
 
老中になるためには、通常5万石以上の[[譜代大名]]という規定があった。しかし、例外もあり3万石以下の大名でも老中格から老中になるのもいあった。また、実際に役職に就くのは不可能である[[外様大名]]でも、「願い譜代」(外様から譜代にしてもらうこと)をしてなるも大名いたようである。だいたいはおり、概ね[[側用人]][[京都所司代]]、[[大坂城代]]など将軍直属の役職からなるもの大名が多かった。
 
大坂城代に任じられた大名は、それまで官位が[[従五位]]であった者は[[従四位|従四位下]]に昇任するのが通例である。さらに、京都所司代か老中に任じられると従四位下・[[侍従]]に昇任するのが通例であった。なお、従四位下以上は[[天皇]]への謁見ができる。
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老中と同じ官名(○○守、○○大輔など)は、自主的に避けられた。新たな老中が就任すると、同じ官名の[[伺候席#大廊下(おおろうか)|大廊下詰め]]、[[伺候席#大広間(おおびろま)|大広間詰め]]、[[伺候席#溜間|溜間詰め]]以外の大名や旗本は自主的に官名を変更したのである。老中が老中に話しかける時は「~殿」のところに官名を付けて呼んだ。
 
執務時間は約4時間程度だったと言う。一般的には老中は午前10時ごろ江戸城に登城、午後2時ごろに退出した。また、老中に就任すると、西之丸下(現在の皇居外苑)に屋敷替えになることが多かった。
 
老中に就任した者は屋敷を西之丸下(現在の皇居外苑)に構えることが多かった。
 
== 老中支配 ==