「ロジャー・レイノルズ」の版間の差分

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== 略歴 ==
[[1934年]][[ミシガン州]][[デトロイト]]生まれ。[[ロス・リー・フィニー]]([[:en:Ross Lee Finney|Ross Lee Finney]])に師事したが、後にクラスメートの[[ロバート・アシュリー]]([[:en:Robert Ashley|Robert Ashley]])や[[ゴードン・ムンマ]]([[:en:Gordon Mumma|Gordon Mumma]])とともに[[:en:ONCE Group|ONCE]]を設立。活発な前衛性を展開しており、「アイスクリームの王様」ではさまざまな音具の活用で話題を取る。レイノルズは前衛畑にいながら、どの学風も排除しない「空気を読める」逸材であったため、[[1989年]]の[[ピューリッツァー賞 音楽部門|ピュリッツァー賞]]受賞は[[カイル・ガン]]([[:en:Kyle Gann|Kyle Gann]])をして「最も賞から遠い派閥の人が成功した」と称えられた。但し、受賞後は、鮮明な音色の書法でもかかわらず、典型的な着想や常套手段に頼って穏健な作風に歩みを進めたことは否定できない
 
[[電子音楽]]<!--経歴上"電子工学"ではないとは思うのだが…-->も当然探求されているものの、レイノルズの功績はサラウンド効果程度に過ぎず、彼ならではの芸風であったとはいいにくい。日本に住んだこともあり、[[サントリー芸術財団|サントリー音楽財団]]の招きで一度だけ日本から委嘱をもらった。[[高橋悠治]]とは交流も深く、[[:en:Mode Records|Mode Records]]からリリースされているピアノ作品集のいくつかの楽曲は彼が弾いた。[[カリフォルニア大学サンディエゴ校]]で[[湯浅譲二]]や[[ブライアン・ファーニホウ]]などと長く教鞭をとり、最も完璧に近い成果を出した教え子には[[ハヤ・チェルノヴィン]]をあげることが出来るが政治的な面も無視できない。ほかの教え子達は全てアメリカ音楽教職業界の頂点に位置している。現在も創作活動は続けている。
 
== 外部リンク ==