「ハクチカラ」の版間の差分

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なお、アメリカでの騎乗ではよいところのなかった保田であるが、このハクチカラ遠征によるアメリカ滞在中に日本競馬史に残る、保田自身にとっても大きな転機を迎えることになった。それは当地の最新の騎乗技術、すなわち[[モンキー乗り]]を習得したことであり、帰国後はその革新的な騎乗スタイルで、当時は[[天神乗り]]が主流であった中央競馬の[[リーディングジョッキー]]争いをたちまち席巻したことは有名である。
 
競走生活を引退後のハクチカラは、日本に帰国して[[種牡馬]]になったが活躍馬には恵まれず、[[1968年]]に[[インド]]に寄贈され、再度海を越えることになる。インドでは国立クニガル牧場に繋養され、トーカイドーエクスプレス(カルカッタゴールドカップ、マドラスゴールドカップ、カルカッタセントレジャー)など数頭のインドの[[クラシック (競馬)|クラシック]]優勝馬を出したあと、[[1979年]]に[[老衰]]のため26歳で死亡した。ハクチカラの血を引く馬は現在は日本のサラブレッドには残っておらず、[[岩手県競馬組合|岩手競馬]]で活躍したダンディキングの母ミスハクギン([[アングロアラブ]])くらいしか現存していない。また、インドでもその後導入された欧米の繁殖馬に圧されてしまい、現在ではほとんど残っていない。
 
=== (参考)ハクチカラ渡米当時の航空機事情 ===