「トレビゾンド帝国」の版間の差分

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当初は東ローマ帝国の亡命政権の中では最初にコンスタンティノポリスを奪還する勢いであったが、他の亡命諸侯との連携を欠いたため、同じ亡命政権の[[ニカイア帝国]]やトルコ人の[[ルーム・セルジューク朝]]に敗北し、小アジア北東部・[[ポントス王国|ポントス]]地方の地方政権に転落してしまった。しかし、[[東ローマ帝国]]滅亡後の[[1461年]]に[[オスマン帝国]]によって滅ぼされるまで約250年間存続し、史上最後の東ローマ系国家となった。国家としてはあまり強大ではなかったが、東西交易路の途上に位置するその地理的状況はこの国に多くの富をもたらし、また周辺の[[グルジア]]、[[アルメニア]]などのキリスト教文化圏との交流も盛んであった。外交上は東方のイスラーム諸勢力、特に[[白羊朝]][[ペルシア]]と婚姻関係を基にした同盟関係を結ぶなどして独立維持を図っている。
 
東ローマ世界の飛び地として、この帝国でも[[ギリシャ正教]]の文化が継続し花開いた。首都トレビゾンドに残る聖ソフィア聖堂、[[ポントス]]の山中に創立された[[スメラ修道院]](現在は廃院)などがその代表的な姿を今に伝えている。
 
このトレビゾンド帝国の国民の末裔であるギリシャ系の人々は、他の[[ギリシャ人]]居住地域から切り離されたまま[[オスマン帝国|オスマン朝]]の治下でも暮らしを続け、後に[[ポントス人]]と呼ばれることになる。