「高橋玄洋」の版間の差分

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松江生まれだが先祖伝来は[[広島県]]<ref>[[ジェームス三木]]『テレビドラマ紳士録 <small>ジェームス三木対談集</small>』映人社、1982年、273頁</ref>。中学の時、[[教育者]](のち[[広島県]][[尾道市]][[副市町村長|助役]])の父親の転勤で一家で[[広島]]に移る。[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]最後の78期生として入学。[[1945年]][[8月6日]][[原子爆弾|原爆]]投下の日には、[[広島市]]郊外で勤労奉仕中で、当日市内に救援に入った。
 
終戦後は尾道市で育ち[[広島県立忠海高等学校]]に在学。[[学制改革]]の関係で[[平山郁夫]]は同級生となる<ref>[http://www2.tiara.cc/~wakimoto/main/tadanoumi/eid48.html わきもと茂紀 | 46 高橋玄洋と平山郁夫]</ref>。尾道では[[洋画家]]の[[小林和作]]に可愛がられた。[[尾道短期大学]]を経て[[1954年]][[早稲田大学]]第一文学部|早稲田大学文学部]]国文科卒業。[[早稲田大学]]卒業の年に新日本放送(現・[[毎日放送]])の[[ラジオドラマ]]懸賞募集に「母の履歴書」で当選<ref name="テレビドラマ全史">『テレビドラマ全史 1953-1994』[[東京ニュース通信社]]、1994年、246頁</ref>。
その後「[[劇団]]新派」で[[北条秀司]]に劇作を師事。続いて日本演劇協会事務局の書記を経て、日本教育テレビ(現・[[テレビ朝日]])嘱託となり局内(演習部)の作家として活躍した。