「王朗 (曹魏)」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
1行目:
'''王 朗'''(おう ろう、? - [[太和 (魏)|太和]]2年([[228年]]))は、[[中国]]、[[後漢]]末から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の政治家。[[徐州]]
==経歴==
『[[魏略]]』によれば、元の[[諱]]は'''厳'''であったという
[[五経|経書]]に通じており、郎中となり、葘丘の[[県令|県長]]となった。[[太尉]]の[[楊賜]]を師と仰いでおり、楊賜が死去すると官を棄てて故郷に戻り喪に服した。[[孝廉]]に推挙され、[[三公]]の府へ招聘されたが、出仕しなかった。
その後、[[徐州]][[刺史]]の[[陶謙]]に[[茂才]]に推挙された。やがて治中に取り立てられ、別駕の[[趙昱]]と共に陶謙を補佐した。当時、
王朗の『家伝』によると、当時の会稽には[[秦]]の[[始皇帝]]を古来より祭る風習があったが、始皇帝は徳のない君主だからという理由でこれを廃止させている。会稽太守として着任した4年間で、民をいつくしんだという<ref>『[[資治通鑑]]』によれば、193年に王朗は会稽太守に就任し、196年に孫策に敗れ、孫策が会稽太守を自称している。</ref>。またこの時期、友人の[[許靖]]が庇護を求めて王朗の下を訪れ、身を寄せている
▲[[徐州]][[刺史]]の[[陶謙]]に[[茂才]]に推挙された。やがて治中に取り立てられ、別駕の趙昱と共に陶謙を補佐した。当時、皇帝は[[長安]]にあり、関東は兵乱で混乱していた。王朗は趙昱とともに、勤皇の姿勢をしめすべきだと勧めた。王朗は時の[[皇帝]]に奉った上奏文を高く評価されて、揚州の[[会稽郡]]の太守に任命された。
▲王朗の『家伝』によると、当時の会稽には[[秦]]の[[始皇帝]]を古来より祭る風習があったが、始皇帝は徳のない君主だからという理由でこれを廃止させている。会稽太守として着任した4年間で、民をいつくしんだという。[[許靖]]が庇護を求めて王朗の下を訪れ身を寄せている(「許靖伝」)。
王朗は城を棄てて船で東冶に逃れたが<ref>『献帝春秋』
▲後に江東に[[孫策]]が進出し、揚州牧[[劉ヨウ (揚州牧)|劉繇]]の勢力が放逐されると、周辺の豪族を糾合しうる人物である王朗は第一の標的となった(「孫破虜討逆伝」)。郡の功曹の[[虞翻]]は逃亡を進言したが、皇帝から任された城を守るべきだと考えてその意見を退けた。王朗は兵を用いて抵抗しようとし、元の丹陽太守の[[周キン|周昕]]の協力も得て固陵において孫策の進撃を防いでいたが、[[孫静]]の進言により査瀆におびきだされ、周昕が斬られるなど孫策に大敗した(呉志「宗室伝」)。
建安3年([[198年]])、王朗は[[曹操]]に召し出されて曲阿から出発し、[[長江]]や海を行ったり来たりしながら数年かけて都にたどり着いた。[[孔融]]は王朗がなかなか到着しないのを心配し、手紙を送って労を慰めた。都に到着後、曹操により諫議大夫・参[[司空]]軍事に任命された。『漢晋春秋』によると、孫策の人物を尋ねられた王朗は「孫策は大きな野心と優れた人材を有しているため、ただの賊では終わらないでしょう」と語った。
▲王朗は城を棄てて船で東冶に逃れたが<ref>『献帝春秋』だと、交州への避難を目指していたという。</ref>、孫策は追撃をかけ再び王朗を大敗させた。王朗は孫策の元に出頭し、降伏が遅れたことを素直に謝罪した。孫策も王朗が儒学の教養が豊かで謙虚な人物であったため処刑せずに許した<ref>『漢晋春秋』によると、孫策は王朗を憎んで[[張昭]]に動向を監視させ、王朗も屈服しなかったため、孫策は内心含むところがあったが、そのまま曲阿に引きとめていたという。</ref>。王朗はその後は一族を抱え困窮したが、道義に基づく行為は目立っていた。
建安18年([[213年]])、[[魏 (三国)|魏]]が建国され
『[[魏略]]』によると、かつて会稽で米の飯を節約したことを曹操にからかわれたため、王朗は、かつての王朗のように節約すべきでないときに節約したことと、今の曹操のように節約すべきときに節約しないことは全く異なると反論した。また、[[孫権]]が曹操に臣従し、貢ぎ物を送ってきたことについて意見を求められると「呉が陥落した後、巴・[[蜀]]を席巻すれば状勢は決まります。慶事は続くでしょう」と述べた。
[[延康]]元年([[220年]])2月、曹操が亡くなり[[曹丕]]が魏王の位を継ぐと、王朗は[[御史大夫]]に昇進し、安陵亭侯に封じられた。民への恩愛と寛容を第一にする統治を心がけるよう上奏した。献帝が曹丕に帝位を[[禅譲]]しようとすると、曹丕にそれを受けるよう勧めた。曹丕(文帝)が皇帝に即位した後の[[黄初]]元年(同220年)11月、御史大夫の官は司空に改称され、また楽平亭侯に昇進した<ref>『三国志』「文帝紀」</ref>。
▲魏が建国されると、軍祭酒のまま[[ギョウ|魏郡]]太守となった。少府、奉常、大理となった。大理としての仕事ぶりは寛容を旨とし、罪に疑義があるときは軽くするよう取り計らった。その法の運用ぶりは[[鍾ヨウ|鍾繇]]と並び賞賛された。
▲曹丕に帝位につくことを勧め、[[禅譲]]により[[魏 (三国)|魏]]が成立した後は[[司空]]に任じられ、楽平亭侯に昇進した。文帝(曹丕)は狩猟をしばしば楽しんだが、王朗は上奏し、帝王の心構えを説いて、思慮に欠ける行為はつつしむよう諫言した。文帝は古代の帝王と昨今の状勢において武の道を尊ぶことは否定されるべきでないとしてこれに反論した。『魏名臣奏』によると、王朗は経費の節約と労力の削減を説いた上奏を行ったという。また、かつて大理であったときに主簿であった張登の功績の顕彰を黄初年間に今度は太尉の鍾繇と連名で行い、その忠義と職務熱心さをに文帝に認めさせ、張登を太官令に引き立てたという。
黄初3年([[222年]])、孫権が子の[[孫登]]を上京させようとしなかったため、文帝は呉征伐を考え、許昌に移って出陣の準備を始めた。王朗は現時点での出陣は軽はずみで無駄が多いのではと諫言した。文帝は結局計画通り出陣したが、長江を前に引き返すことになった。▼
▲文帝は、臣従していた[[呉 (三国)|呉]]の孫権と、それに敵対する[[蜀]]の劉備が抗争しているとき、孫権と協力して劉備を討つため軍を出そうとした。王朗は、まずは孫権が動いてからにすべきと述べ、軍を動かすことに消極的な意見を述べた。
▲孫権が子の[[孫登]]を上京させようとしなかったため、文帝は呉征伐を考え、許昌に移って出陣の準備を始めた。王朗は現時点での出陣は軽はずみで無駄が多いのではと諫言した。文帝は結局計画通り出陣したが、長江を前に引き返すことになった。
王朗は儒学に通じ、『[[易経]]』
▲明帝([[曹叡]])の時代に蘭陵侯となり、500戸の加増を受け、所領は1,200戸となった。明帝に対しても、労役や出費の軽減を具申した。やがて[[司徒]]に転任となった。明帝が後継に恵まれないことを憂慮する上奏をしたところ、明帝に感謝されている。
太和2年
▲王朗は儒学に通じ、『易』、『春秋』、『孝経』、『周官』を書き表し、上奏や議論などの著述のすべてが世に伝わっていたという。また、呉の張昭や蜀の許靖とも文通し、連絡を取り合っていたという(「張昭伝」「許靖伝」)。劉備の没後に蜀の丞相となった[[諸葛亮]]にも手紙を送ったが、返事はもらえなかった(「諸葛亮伝」)。
▲太和2年([[228年]])11月に死去。[[諡|諡号]]は成侯。その功績は絶大であり、文帝の時代、その所領を分割して一子が列侯され、さらに王朗の願いにより兄の子の王詳も取り立てられている。
子の王粛は、会稽太守であったときに生まれた人物で、[[司馬氏]]に接近し、[[司馬昭]]に娘([[王元姫]])を嫁がせている。王元姫は[[司馬炎]]([[西晋]]の武帝)、[[司馬攸]]達の生母となった。
== 評価 ==
その文章について、[[陳琳]]は[[江南]]にいる[[張紘]]に送った手紙で「こちらにいる王朗殿、そちらにいる貴方と[[張昭]]殿に、私などは到底及ばない」という旨を述べている<ref>『三国志』「張紘伝」の注に引く『[[呉書]]』</ref>。
[[王沈]]の『[[魏書]]』では
▲== 逸話での王朗 ==
▲かつて、一度助命して連れに加えた男性を見捨てようとして、華歆にたしなめられ、そのことから世間で華歆に劣ると見られた逸話がある<ref>『[[世説新語]]』徳行篇より。ただし、元になった話が収録されている[[華キョウ|華嶠]](華歆の孫)の『譜叙』では、王朗は関係ない場面での話になっている。</ref>。
==参考文献==
*陳寿『三国志』「王朗伝」
▲小説『[[三国志演義]]』では、[[厳白虎]]と共に孫策に敵対するも敗れる凡庸な太守の一人として登場する。その際、部下の[[虞翻]]から孫策と和平を結ぶべきと言われると激怒したため、虞翻に時代遅れと言われ去られてしまった。後に曹操の家臣の一人として登場し、華歆と共に魏の簒奪に加担する。諸葛亮の北伐で敗れた[[夏侯楙]]の代わりに[[曹真]]を推挙、そして曹真の軍師として76歳の高齢を押して出陣し、[[諸葛亮]]に論戦を挑むも敗北、簒奪者に加担した過去を厳しく咎められたため、その恥とショックから憤死する。
==脚註==
|