「ベルリンの壁」の版間の差分

→‎建設の背景: 敬称トル
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西ドイツ・西ベルリン間の道路上の[[国境検問所]]はA(アルファ)・B(ブラボー)・C(チャーリー)<!--・D(デルタ)-->があり、Cは「[[チェックポイント・チャーリー]]」の別名で知られていた。
 
長らく壁建設について、当時の[[ヴァルター・ウルブリヒト|ウルブリヒト]]国家評議会議長が東ドイツ国家の崩壊を恐れて、ソ連の[[フルシチョフ]]に東西ベルリンの交通遮断を求め、フルシチョフもその強い要請に屈したと思われていたが、ドイツの歴史家マンフレート・ヴィルケが著著「壁の道」の中で1961年8月のウルブリヒト・フルシチョフ会談の記録から、壁建設の決定権はソ連が握っていたことを明らかにした<ref>読売新聞2011年8月14日 国際6面</ref>
 
ヴィルケによると、ウルブリヒトが東西ベルリン遮断をソ連側に求めていたのは事実であるが、フルシチョフは61年6月の[[ウィーン]]での[[ケネディ]]米大統領との会談まで待つよう求めた。ケネディとの会談でフルシチョフは、米国が東ドイツを国家承認するよう求めたが、米側は拒否。その結果、フルシチョフはベルリンの交通遮断を認めたという。ヴィルケによれば「東ドイツはソ連を通じてしか目的を実現できず、国際交渉において発言力は無かった」と指摘し、「ソ連にとってベルリン問題はあくまでも欧州の力関係をソ連優位にするためのテコだった」とし、ベルリンの壁建設は米軍を撤退させ、西ベルリンの管理権を握るというソ連の外交攻勢からの撤退だったと結論している。
 
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