「仁志敏久」の版間の差分

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その後、[[日本生命硬式野球部]]を経て、{{by|1995年}}のドラフトで2位指名(逆指名)を受けて[[読売ジャイアンツ]]に入団し、前年長年主砲として活躍して引退した[[原辰徳]]の背番号'''8'''を与えられた。以前から原の大ファンで、入団時には少年時代に懸賞で原のサイン入りバットが当選した、というエピソードが紹介された。仁志は、当時評論家に就任して間も無い原との対談でそのバットを見せながら「(プロ入り初打席は)このサイン入りバットで打ちたい」と発言していた(実際は使用しなかった)。プロ入り後に「巨人に入団して変わったことは」と聞かれ、「これまで『原』『原』と呼び捨てにしていたのが『原さん』に変わった」と答えている。
 
=== 巨人時代プロ入り後 ===
ルーキーイヤーの{{by|1996年}}シーズンに[[三塁手]]として打率.270、7本塁打、24打点を挙げ、[[セントラル・リーグ]]の新人王を受賞。{{by|1997年}}に二塁手に転向([[元木大介]]は三塁手へ)。小柄な体格だったが、二塁手としての評価を伸ばし、活躍し続けた。[[2000年の日本シリーズ]]にも出場して日本一に貢献し、シリーズ優秀選手賞も受賞。また{{by|2000年}}・{{by|2001年}}にはシーズン20本塁打を記録している。
 
{{by|2005年}}も1番打者としてスタートしたものの、4月の不振から交流戦直前に9番仁志、1番清水に配置転換を迫られる。その交流戦こそ12球団選手中打率4位の成績を残すものの、セ・リーグ投手陣相手には苦しみ、後半戦には若手の台頭で6・7番を担当。シーズンオフにはロッテから球界有数の守備で知られる[[小坂誠]]が加入し、さらに原が監督復帰、{{by|2006年}}シーズンも2002年の清水・仁志の「ダブル1番構想」にこだわりをみせる。しかし仁志は不調のため、小坂に開幕スタメンを奪われる。仁志と小坂は同様に1割台後半の不調に陥り、小坂が2番打者として優先的に使われ、仁志起用時は7番・8番打者として使われることが多くなる。さらに中盤にも離脱すると以降は一軍に上がることもなく、[[脇谷亮太]]の台頭、さらに手首も骨折した。64試合出場・打率.185・1本塁打・7打点・1盗塁と過去最低のシーズンとなった。監督構想からも外れ、自ら[[トレード]]を志願して球団も受け入れ、同年[[11月6日]]、[[小田嶋正邦]]+金銭の[[トレード|交換トレード]]で[[横浜ベイスターズ]]へ移籍。背番号は日本生命時代に着けていた'''7'''。
 
=== 横浜時代 ===
横浜移籍1年目の{{by|2007年}}は、開幕から28試合連続出塁記録を樹立するなど、序盤は常に打率3割近くをマークし、序盤の横浜首位の原動力のひとつとなったものの、後半失速。シーズン後半まで1番に座っていたものの、本来1番打者に求められる[[盗塁]]、[[四死球]]が共に少なく、1番打者としての活躍には疑問が残った。
 
{{by|2009年}}は開幕を2番・二塁手でスタートしたが、打率1割台と極度の不振に陥り、5月半ば以降は開幕当初は遊撃手であった[[藤田一也]]にレギュラーを奪われる。以降も休養を入れながらスタメン出場するも調子は上がらず、終わってみれば51試合の出場で打率.159、0本塁打、3打点、本塁打と盗塁はプロ入り後、初のゼロと自己ワーストの成績に終わった。極度の不振とチームの若手育成の為、2009年度限りでの横浜退団、他球団でのプレーを希望している。オフに収録された[[ズームインサタデー]]のインタビューにおいてメジャーリーグ挑戦を表明した。
 
=== 渡米、現役引退 ===
{{by|2010年}}4月、アメリカ[[独立リーグ]]の[[アトランティックリーグ]]に加盟する[[ランカスター・バーンストーマーズ]]に入団<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2010/04/11/30.html 仁志 単身渡米、独立リーグ開幕へ]</ref>(当時のチームメイトに、のちに横浜ベイスターズへ入団する[[ブレット・ハーパー]]がいた)。4月22日から31試合に出場し、打率2割8厘、1本塁打、3打点の成績を残したが、右太もも痛の悪化により6月8日に現役を引退した<ref>{{cite news
|url=http://www.yomiuri.co.jp/sports/yakyu/news/20100609-OYT1T00214.htm
帰国後の7月17日、横浜スタジアムでの横浜-巨人戦の試合前に引退セレモニーが行われた<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/flash/KFullFlash20100717059.html お疲れさま…仁志氏に巨人&横浜ファンが大拍手] - スポーツニッポン2010年7月17日配信、同日閲覧</ref>。
 
=== 渡米、現役引退 ===
尚、[[2011年]]4月より、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]『[[すぽると!]]』のレギュラー野球解説者を務めることが決定した。
 
== 人物 ==
* 1000本安打:2004年5月2日、対広島東洋カープ6回戦(東京ドーム)、1回裏に[[ジョン・ベイル]]から右中間へ二塁打 ※史上216人目
* 100本塁打:2004年5月9日、対広島東洋カープ9回戦(広島市民球場)、1回表にジョン・ベイルから左越先頭打者本塁打 ※史上231人目
* 1000試合出場:2004年6月4日、対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]9回戦([[明治神宮野球場]])、1番・二塁手として先発出場 ※史上393人目
* 1500本安打:2008年6月4日、対[[埼玉西武ライオンズ]]2回戦([[西武ドーム]])、8回表に[[岡本真或|岡本真也]]から中前安打 ※史上96人目
* 150本塁打:2008年7月17日、対広島東洋カープ14回戦([[横浜スタジアム]])、6回裏に[[梅津智弘]]から左越3ラン ※史上149人目
* 1500試合出場:2008年7月25日、対広島東洋カープ15回戦(広島市民球場)、2番・二塁手として先発出場 ※史上161人目
 
; その他の記録
* '''7''' (2007年 - 2009年)
 
=== 登場曲関連情報 ===
=== 出演番組 ===
巨人時代の打席に登場時のテーマ曲は、前述の趣味である[[プロレスリング・ノア]]の主力選手である[[丸藤正道]]の入場テーマ曲であるHYSTERICを使用。2008年からは交友関係のある[[小橋建太]]の入場曲を打席テーマ曲に使用した。なお、2005年は[[Jay-Z]]、2006年には[[SOUL'd OUT]]の曲を打席のBGMに選んでいる。
* [[松本ひでおのショウアポン放送]]・[[プナイターネクスト|松本ひでおと仁志敏久のショウアップナイターネクスト!]]([[ニッポン放送]]) - 2007年10月から2008年3月まで金曜日に出演。
* [[すぽると!]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]])
 
2009年は[[KENTA]]の入場曲を使用していたが、 6月18日から、交流のあった[[三沢光晴]]追悼の意を込め、テーマ曲を三沢の入場曲「スパルタンX」に変更。
 
== 関連情報 ==
=== 著書 ===
* プロフェッショナル[[祥伝社新書]]、[[祥伝社]]、2008年4月発行)ISBN) ISBN 978-4-396-11107-6
* 反骨([[双葉社]]、2010年5月発行)ISBN) ISBN 978-4-575-30215-8
* 『わが心の木内野球』([[ベースボール・マガジン社]]、2011年7月発行) ISBN 978-4-583-10393-8
 
== 脚注 ==
== 関連項目 ==
* [[茨城県出身の人物一覧]]
* [[早稲田大学の人物一覧]]
* [[読売ジャイアンツの選手一覧]]
* [[横浜ベイスターズの選手一覧]]
* [[ニッポン放送]]・[[松本ひでおと仁志敏久のショウアップナイターネクスト!]] - 2007年10月から2008年3月まで金曜日に出演。
 
== 外部リンク ==
{{日本シリーズ敢闘賞}}
}}
 
{{読売ジャイアンツ1995年ドラフト指名選手}}
 
{{DEFAULTSORT:にし としひさ}}
[[Category:日本の野球選手]]
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