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'''林 頼三郎'''(はやし らいざぶろう、[[明治1878年]]11年([[1878年明治]]11年)[[9月6日]] - [[昭和1958年]]33年([[1958年昭和]]33年)[[5月7日]])は、[[埼玉県]][[行田市]]出身の[[刑法]][[法学者|学者]]。[[検事総長]]・[[大審院院長]]・[[司法大臣]]を歴任。
 
== 来歴 ==
実父は[[忍藩]][[御典医]]だったが、製粉業に失敗し、貧しい生活を強いられた。忍高等小学校在学中、父が病気となり、途中、北埼玉郡役所給仕となる。家計を助けるかたわら、出勤前早朝に恩師の自宅で英語を学ぶ努力家であり、その人物を見込まれ、16歳で北埼玉郡長の養子となる。同年、弁護士書生をしながら、[[英吉利法律学校|東京法学院]]([[中央大学]]の前身)に進学、[[博士 (法学)|法学博士]]の[[学位]]を得、[[法曹界]]に重きをなした。
 
[[検察官|検事]]となり「[[思想検事]]」系列に連なる。[[大正1919年]]8年([[1919年大正]]8年)末、[[三・一独立運動]]に関する[[平沼騏一郎]]検事総長宛の視察調査報告では、「思想犯の社会からの隔離」を提言。これはのちの[[昭和1941年]]16年([[1941年昭和]]16年)の新[[治安維持法]]において、行刑や[[思想犯保護観察法]]も絡め、[[予防拘禁]]として盛り込まれた<ref>『思想検事』(荻野富士夫、岩波新書、2000年9月) P17~P18</ref>。また[[司法省|司法]][[次官]]時代、[[小山松吉]]検事総長らと、実際の治安維持法が初適用された[[京都学連事件]]にも関わった<ref>『思想検事』(荻野富士夫) P26</ref>。
 
一方、母校 中央大学、横浜専門学校(現 [[神奈川大学]])等にて教育振興にも尽力し、故郷の行田市水城公園には顕彰碑が建立されている。ちなみに、中央大学法学部出身の俳優[[丹波哲郎]]は親戚にあたり、丹波自身、「林さんのおかげで入学させてもらった(縁故入学を暗に匂わせているが、彼一流のジョークであろう)」と後年語っている。
 
== 略歴 ==
* [[明治1891年]]24年([[1891年明治]]24年) 北埼玉郡役所給仕
* 明治26年([[1893年]](明治26年) 東京法学院([[中央大学]]の前身)に入学
* 明治30年([[1897年]](明治30年) [[判事検事登用試験]]に合格し、水戸区裁判所検事代理着任(同年[[弁護士試験]]にも合格)
* [[大正1920年]]9年 ([[1920年大正]]9年) 刑事法に関する業績により、[[博士 (法学)|法学博士]]号を授与
* [[昭和1929年]]4年 ([[1929年昭和]]4年) 横浜専門学校設立、初代校長
* 昭和7年 ([[1932年]](昭和7年) [[検事総長]]
* 昭和10年([[1935年]](昭和10年) [[大審院長]]
* 昭和11年([[1936年]](昭和11年) [[広田内閣|広田弘毅内閣]][[司法大臣]]
* 昭和13年([[1938年]](昭和13年) 中央大学学長
* 昭和20年([[1945年]](昭和20年) [[枢密顧問官]]
* 昭和22年([[1947年]](昭和22年) [[公職追放]]
* 昭和27年([[1952年]](昭和27年) 再び中央大学理事長から総長に就任
* 晩年は私立学校振興会長、[[中央教育審議会]]委員等を務めた