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*[[1940年]](昭和15年)[[2月2日]](第75帝国議会)、「[[反軍演説]]」(「支那事変処理中心とした質問演説」)を行った。
 
反軍演説が軍部、及び軍部との連携・親軍部志向に傾斜していた議会内の諸党派勢力(政友会[[立憲政友会#政友会分裂問題と解党|革新派]]([[中島知久平|中島]]派)、[[社会大衆党]]、[[時局同志会]]など)より反発を招き、[[3月7日]]に議員の圧倒的多数の投票により衆議院議員を[[除名]]されてしまった。しかし[[1942年]](昭和17年)総選挙では軍部を始めとする権力などからの選挙妨害をはねのけ、[[第21回衆議院議員総選挙|翼賛選挙]]で非推薦ながら兵庫県5区から最高点で再当選を果たし衆議院議員に返り咲く。
 
[[第二次世界大戦]]後の[[1945年]](昭和20年)11月、[[日本進歩党]]の創立に発起人として参画、翌年の[[公職追放令]]によって進歩党274人のうち260人が[[公職追放]]される中、斎藤は追放を逃れ[[総務委員]]として党を代表する立場となり翌[[1946年]](昭和21年)に[[第1次吉田内閣]]の国務大臣(就任当時[[無任所大臣]]、後に初代[[行政管理庁|行政調査部]]<ref>現総務省行政評価局・行政管理局</ref>総裁)として初入閣する。