「シンガポールの歴史」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
リンクの追加。
33行目:
その後は日本陸軍による軍政が敷かれ、シンガポールは「昭南島(しょうなんとう)」と改名された。なお、昭南島とは「昭和の時代に得た南の島」の意とされている。軍政下の行政組織として「[[昭南特別市]]」が設置され、初代市長には、日本人内務官僚の[[大達茂雄]]が任命された。
 
その後イギリスや[[中華民国]]などの[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍の支援を受けた中国系ゲリラにより、散発的なゲリラ活動が行われたことを受け、日本軍は山下奉文司令官名の「布告」を発行し、反日ゲリラやその支援者と目された中国系住民を指定地へ集合させ、氏名を英語で書いた者を「知識人」、「抗日」といった基準で選別し、対象者をトラックで海岸などに輸送し殺害したとされる([[シンガポール華僑虐殺事件]])。この事件は戦後の1961年12月に、イーストコーストの工事現場から白骨が続々と発掘されたことにより、日本に[[血債]]の償い(血債は中国語で『人民を殺害した罪、血の負債』といった意味)を求める集会が数万人の市民を集めて開かれる事態に発展し、1967年には「[[血債の塔]]」が完成した。少なくとも数千人から2万人の中国系ゲリラとその支援者とされた中国系住民が虐殺されたとされている。
 
なお日本軍は、シンガポールと同じく長年イギリスの植民地下にあった[[イギリス領インド帝国]]出身の投降したイギリス軍兵士の中で、インドの独立を志す者を組織し「[[インド国民軍]]」を創設した。その後独立運動家の[[ラース・ビハーリー・ボース]]に組織を委譲し、その後インド国民軍はボースの同志で、[[1943年]]10月に同地に設立された[[自由インド仮政府]]首班の[[スバス・チャンドラ・ボース]]の指揮下で、インドやビルマなどでイギリス軍と戦った。