「ブルーノ・マデルナ」の版間の差分

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== 作風 ==
=== 第一期 ===
マデルナは、1920年生まれと前衛世代の中ではやや年長組に属していたものの、[[ベルント・アロイス・ツィンマーマン]]のように前衛イディオムへの懐疑を持つことなく、すんなりとそれを受け入れた。現在でも非常に珍しい「[[トータル・セリエリズム]]作曲コース」の設営、世界初の[[減算合成]]による[[テープ音楽]]の作曲、アナーキズムへの傾斜、そして「多様式主義」をイタリアで初めて採用した(ラジオ・ドラマのための「ドン・ペルリンプリン」)作曲家でもある。
 
このように、作曲にどのような結果でも用いることをイタリアで初めて奨励したのはマデルナであり、やがて[[ルチアーノ・ベリオ]]、[[アルド・クレメンティ]]がこれに続く形でデビューしている。「ピアノ協奏曲」で見られる「グランドピアノの蓋を演奏中に乱暴に閉める」指示は、各国のピアノ会社から大変評判が悪く、現在でもこの作品演奏の需要されることはほとんどない。
 
この時期に知り合ったフルート奏者の[[セヴェッロ・ガッツェローニ]]とオーボエ奏者の[[ローター・ファバー]]とは生涯の良き友であると共に、熱心なコラボレーションをすることとなった。そのコラボレーションは、両者が共演する為に書かれる晩年の「グランデ・アウロディア」まで続いた。
 
=== 第二期 ===
外国での演奏需要が増え、一時期は[[ジュリアード音楽院]]でも教鞭をとった。この時期はヘルダーリンの台本によるオペラ『[[ヒュペーリオン]]』の創作に全精力を費やした形となり、その他の作品はこのオペラの衛星のような役目を果たす格好になる。何でもあり姿勢が退けられ、シリアスな口調を優先させることが多くなる。[[ルイジ・ノーノ|ルイージ・ノーノ]]がオペラへの情熱を傾けのは、間違いなくこの作品が原因である
 
前衛イディオムの醍醐味は不確定性にあるという主張は譲れなかったらしく、これ以後最晩年まで作品に不確定性のみを取り入れることは死守しつづけた。この頑迷な主張仇となり結果的に作品の真価が没後の再録音では不明となるケースも多々見られるようになる。テープ作品に至っては、マスターテープの保存状態が劣悪なものも含まれており、「場合によっては、マデルナの意志を汲み取って再作曲する必要がある」と弟子のサンドロ・ゴルリが述べている。
 
多忙の故に単一のテクストから複数のヴァージョンで対応することにも追われた。その典型例が「衛星のためのセレナータ」である。楽器間のバランスが極度に狂う瞬間が聴き所であるが、原則的にはポリフォニックな様相を示す点がイタリア風といいえる。
 
「イタリアの状況は世界の最先端から常に遅れている」ことを証明する為、ついに[[ダルムシュタット]]への移住を決意したのもこの時期である。