「パティ・ボイド」の版間の差分

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==エリック・クラプトン==
1960年代の終盤、クラプトンとハリスンは親しい友人となり、作曲やレコーディングを共に行うようになった。クラプトンがボイドに恋に落ちたのはこの頃とされている<ref name="dailymailpart1"/>。クラプトンはまたボイドの17歳の妹のポーラにも恋をし、彼女自身も彼に引かれていた<ref name="dailymailpart1"/>。しかしポーラは[[いとしのレイラ]]を聞いてクラプトンの元を去った。クラプトンがポーラを姉の代わりとしていたことが、その曲から明らかであったからである<ref name="dailymailpart2"/>。ボイドは1970年代の前半に彼女がクラプトンのアプローチを拒絶した後、彼が[[ヘロイン]]中毒に陥り、[[アリス・オームズバイ=ゴア]](Alice Ormsby-Gore)と三年間放浪したと発言している<ref name="dailymailpart2"/>。一方で、クラプトンの[[デレク・アンド・ザ・ドミノス]]の唯一のスタジオアルバムである[[いとしのレイラ]]は、彼のボイドに対する愛を明らかにするために書かれたものであった。アルバムは同名の曲「いとしのレイラ」を収録しており、この曲は30年に渡って二つのヴァージョン共にヒットした<ref name="CNN2005"/>。
[[Image:Clapton.jpg|thumb|right|150px|ボイドと過ごしていた1977年6月、スイスのヴェッツィコーンのアイシャル・シアターにてライブを行うクラプトン]]二人は1979年に結婚。外面的には完璧なカップルであったが、結婚生活は争いに満ちていた。ボイドは飲酒および薬物の使用を認めているのにも関わらず、クラプトンとは違い彼女は[[アルコール依存症]]や[[薬物依存症]]になることはなかった<ref>Wonderful Tonight, Epilogue; See also, ''Daily Telegraph'', 12&nbsp;August 1999; "Like many others in her circle, Boyd sampled the booze, dope and cocaine but, unlike Clapton, she knew when to stop."</ref>。ボイドはクラプトンがアルコール依存症の治療を試みなくなったことで彼から去ったと述べている。そして彼女は、写真家のウィル・クリスティーと付き合うようになる<ref name="dailymailpart3"/>。1984年にクラプトンはイボンヌ・ケリーと一年に渡って関係を持ち、1985年の1月に彼女との間に娘のルースが産まれた<ref name="ClaptonsDaughter">{{cite web |first=Marcus |last=Errico |url=http://music.yahoo.com/read/news/15392917 |title=No Kidding: Clapton a Dad at 59 |publisher=[[Yahoo]] |date=2005-03-02|accessdate=2008-03-07}}</ref>。クラプトンとケリーは娘の誕生について一切公表しておらず、1991年に行われたクラプトンの息子のコナーの葬式まで彼の子供と明かされなかった<ref name="dailymailruth">{{cite web |first=Stuart |last=Husband |url=http://www.dailymail.co.uk/pages/you/article.html?in_article_id=463772&in_page_id=1908 |title=The truth about Eric Clapton's Secret Daughter |publisher=YOU magazine |date=2007-06-23|accessdate=2008-03-08}}</ref>。ボイドは「最も傷ついたのはエリックが最初から子供のことを知っていたこと。彼は私への愛がまだあると復縁を迫っていた一方で、イボンヌに[[養育費]]を六年にも渡って支払っていたの。」<ref name="dailymailpart3"/>ボイドはクラプトンのアルコール依存症と結婚前から始まっていた幾度もの情事を数年間耐えた上で、彼と離婚したとしている<ref name="SydneyMorningHerald1"/><ref name="dailymailpart3"/>。結局、クラプトンの[[イタリア]]人[[モデル (職業)|モデル]]のロリ・デル・サントとの浮気が決め手となり、クラプトンとボイドは1989年に離婚した。ロリ・デル・サントは1986年にコナーを出産していた<ref name="Telegraph1999">{{cite web |first=Judith |last=Woods |url=http://www.telegraph.co.uk/htmlContent.jhtml?html=/archive/1999/03/17/tlboyd17.html |title=It's amazing we're still alive |work=[[Daily Telegraph]] |date=1999-03-17|accessdate=2008-03-08}}</ref>。またボイド自身は[[体外受精]]を試みたにも関わらず、妊娠することができなかった<ref name="dailymailpart3"/><ref name="Telegraph1999"/>。ボイドとクラプトンは離婚原因を「不貞行為(infidelity and unreasonable behavior)」としている<ref name="dailymailpart3"/>。二人の関係が散々なものだったのにも関わらず、二人はその後数年に渡り友人であり続けた。
 
==曲へのインスピレーション==