「畠山基玄」の版間の差分

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旗本の[[畠山政信|畠山民部政信]](300石)の長男として誕生。母は不詳。[[慶安]]元年([[1648年]])6月20日はじめて将軍[[徳川家光]]に謁見。[[寛文]]4年([[1664年]])に畠山家の家督を相続した。畠山家は[[足利氏]]の支流で[[室町時代]]には[[三管領]]として栄えた名門家であるため、その畠山家の嫡流にあたる基玄を一般の旗本に留めておくことは惜しまれ、[[延宝]]7年([[1679年]])5月3日に奥高家に列し、またこの際に摂津国八部郡に300石を加増された。以降基玄の子孫は[[高家 (江戸時代)|高家]]職を継承する。12月28日、従五位下侍従・民部大輔に叙任。さらに[[天和 (日本)|天和]]3年([[1683年]])3月25日、在京中に従四位下を授与される。[[貞享]]2年([[1685年]])4月27日に下野国都賀郡に500石を加増され、[[貞享]]4年([[1687年]])4月19日に従四位上に昇進した。
 
[[徳川綱吉]]の基玄への寵愛は深く、[[元禄]]元年([[1688年]])11月14日には1,000石加増とともに[[側用人]]に就任。[[高家 (江戸時代)|高家]]は一般の[[旗本]][[譜代大名]]の職には就任できないため、一度高家の列を離れての就任であった。また[[側用人]]は[[譜代大名]]の職であって通常万石以下の[[旗本]]は就任できない。そのためこれは二重に異例の就任であった。[[元禄]]2年([[1689年]])2月15日さらに2,900石の加増あって都合5,000石となる。[[元禄]]4年([[1691年]])2月3日、やはり大名職の[[奏者番]]に転じた。しかしなぜかこの頃に基玄は突然に綱吉の寵愛を失い、将軍への拝謁を禁止される。2月28日に拝謁は許されたが、5月28日[[奏者番]]の職を取りあげられた。[[徳川綱吉]]は、感情の起伏が激しく、寵愛していた者を突然嫌うようになることはしばしば有った。その例は[[山内豊明]]・[[喜多見重政]]などにも現れている。この基玄の件についても綱吉のそうしたな気性を考えれば不思議なことではなく、むしろ改易にされなかっただけ基玄は運がよかったともいえる。
 
[[元禄]]9年([[1696年]])12月11日に再び奥高家となり[[高家 (江戸時代)|高家]]の列に復帰。[[元禄]]10年([[1697年]])3月8日、高家肝煎(高家のトップ・3人いる)の一人である[[大沢基恒]]が死去したため、その後任として高家肝煎に就任。[[元禄]]13年([[1700年]])2月5日[[秋子内親王]]の誕生に伴い、その祝賀のため将軍名代として上洛。[[宝永]]4年([[1707年]])11月21日に隠居した。実子4人はみな早世したため、家督は養子の[[畠山基祐]](弟畠山義玄の子)が継いだ。[[宝永]]7年([[1710年]])2月20日に死去。[[享年]]75。芝の[[金地院]]に葬られた。法号は浄観寺殿玄峯基玄大居士。
 
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