「北欧史」の版間の差分

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→‎北欧三国の成り立ち: スタラヤ・ラドガ、ルーシ・カガン国、ルーン石碑などを元に加筆。
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さて、北欧各地に誕生した原生国家は、800年ごろまでその地の覇権を巡って激しい争いを繰り返し、強国への併合を繰り返しながら国の強化を図っていった<ref name="tunoda_040"/>。この時代はゲルマン諸族が西欧・南欧へ大きく移動し、各地に王国を築いた[[民族移動時代]]とも重複しており、彼らの多くは北欧を原住地としていたため、北欧の地には多くの冨と文化が流入し、大きな文化的発展を遂げた<ref name="tunoda_040"/>。この時代に対する言及としてはローマの歴史家[[タキトゥス]]の『スイオーネス』がある<ref name="tunoda_029">[[#角田1955|角田1955]]、p.29。</ref>。『スイオーネス』にはスウェーデン中部の[[スヴェーア人]]が建国した初期の王国の成り立ちについて記されており、28の部族国家がやがて3つの原生国家へと統合していったとされている。このうちのひとつであった[[メーラル王国]]は[[メーラレン湖|メーラル湖]]を中心として栄えた王国であり、6世紀中ごろには残りの2王国を併合してスヴェーア諸族を統合し、[[シルフィング王朝]]と呼称されるようになった<ref name="tunoda_041">[[#角田1955|角田1955]]、p.41。</ref><ref group="注釈">[[スウェーデンの国章]]であるトゥレー・クローノー(三つの王冠)はこのことに由来している。([[#角田1955|角田1955]]、p.41。)</ref>。シルフィング王朝は650年ごろに後述するデーン王国によって滅ぼされることとなるが、王子ウーロフは[[ヴェルムランド地方]]へ逃れて[[インリング王朝]]として再建させた。その後も領土を拡張していき、南部の[[ゴート王国]]を服属した後、[[860年]]には首都を[[ガムラ・ウプサラ|古ウプサラ]]へ設置し、後の[[スウェーデン|スウェーデン王国]]の祖形が成立した<ref name="tunoda_041"/>。
[[ファイル:Prizvanievaryagov.jpg|thumb|right|リューリク、ラドガに到着する]]
またスヴェーア人は現在の[[リヴォニア]]、[[ロシア]]、[[ウクライナ]]と他の東方地域に移住した。ノルウェーとデンマークの移住者が始めに西方と北ヨーロッパに移住した。これらの東方からのスカンディナヴィア人移民はヴァラング人([[ヴァリャーグ]])(''væringjar'', 「ののしる人たち」)として知られ、[[サガ]]によれば8世紀中頃に建設された[[ラドガ湖]]南方の[[スタラヤ・ラドガ]]([[古ノルド語]]:「アルデイギュボルグ」(Aldeigjuborg))がノルマン人によって支配されていた。最古の[[スラヴ人]]の[[原初年代記|記録]]によれば、これらヴァラング人が[[キエフ大公国|キエフ・ルーシ]]を建国し、[[10世紀]]末まで移民は奨励された。この東方ヨーロッパの大国は[[モンゴル帝国]]のヨーロッパ侵略に最初に遭遇し征服された。東方に進出したノルマン人は自らは記録には残さなかったが、上記のスラヴ人の記録の他、西欧、ギリシャ、[[イスラーム]]によってその活動が伝えられている。その一つがヴァラング人を形成する[[ルーシ族|ルーシ]]と呼ばれる人々で、8世紀後半から9世紀にかけての[[ルーシ・カガン国|ルーシ・カガンの国家群]]を形成し、そのルーシの中から[[リューリク]]が[[ノヴゴロド公国]]を建国し、その一族である[[オレグ (キエフ大公)|オレグ]]などがキエフ・ルーシ創設に関わったという。東方へ進出したノルマン人の足跡は、[[ルーン文字]]によって刻銘された[[ルーン石碑|石碑]]によって伝えられた。
 
[[File:Pictures of English History Plate X - Canute and His Courtiers.jpg|thumb|left|200px|スキョル王朝の版図を大きく拡大させた[[クヌーズ1世 (デンマーク王)|クヌーズ1世]]。]]