「高松藩」の版間の差分

(領地と変遷)
頼房は兄である[[尾張藩]]主・[[徳川義直]]・[[紀州藩]]主・[[徳川頼宣]]に先だって男子をもうけたことを憚って、長子・頼重ではなく第3子・[[徳川光圀|光圀]]を[[水戸藩]]主に立てた。しかし、光圀は長兄・頼重を思い、後嗣を頼重の子である[[徳川綱条|綱条]]に譲り、自身の長子である[[松平頼常|頼常]]を高松藩主に据えた。松平氏は入封当初より、高松城下に水道を引き、潅漑用に溜池を造るなど、水利の悪い讃岐の地を整備した。また、塩田開発を奨励した。藩財政は江戸後期に至るまで比較的安定していたが、[[幕末]]には財政は逼迫した。
 
松平氏第5代藩主・[[松平頼恭|頼恭]]は[[平賀源内]]を起用し、城下の栗林荘(現在の[[栗林公園]])に薬草園を作らせた。また、[[医師]]の[[向山周慶]]に製糖技術を学ばせ[[白糖]]の製造を可能にした。これにより[[塩]]・[[綿]]と並ぶ[[讃岐三白]]の一つである讃岐[[和三盆]]糖の製造技術が確立し現在も香川県の名産品の一つとなっている。9代藩主[[松平頼恕|頼恕]]は[[久米通賢]]を登用し、坂出の浜辺に日本最大級の塩田を開発した
 
幕末は宗家である水戸藩が尊皇に傾き、また逆に最後の藩主・[[松平頼聰|頼聰]]の正室が[[井伊直弼]]の娘という立場から、苦しい立場に立たされた。結局、[[慶応]]4年([[1868年]])の[[鳥羽伏見の戦い]]では旧幕府方に就いたため、朝敵となった。これにより[[土佐藩]]・丸亀藩などが高松城下に進駐したが、戦わずに家老を処分し、頼聰も謹慎して恭順の意を示したことにより赦免された。