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'''マーカス・ガーベイ'''('''Marcus Mosiah Garvey''', [[1887年]][[8月17日]] - [[1940年]][[6月10日]])は、黒人民族主義の指導者、ジャーナリスト、企業家。[[世界黒人開発協会アフリカ会連合]](UNIA-ACL)の創設者。[[ジャマイカ]]の国民的英雄であ
[[セント・アン教区]]で生まれたマーカス・ ガーベイは、ヨーロッパの植民地政策からのアフリカ解放を主張し、[[アフリカ回帰運動]]のもっとも重要な提案者として知られている。北米地域にお
▲'''マーカス・ガーベイ'''('''Marcus Mosiah Garvey''', [[1887年]][[8月17日]] - [[1940年]][[6月10日]])は、黒人民族主義の指導者、ジャーナリスト、企業家。[[世界黒人開発協会アフリカ会連合]](UNIA-ACL)の創設者。[[ジャマイカ]]の国民的英雄である。ジャマイカの20ドルコインの肖像になっている。
▲[[セント・アン教区]]で生まれたマーカス・ ガーベイは、アフリカ回帰運動のもっとも重要な提案者として知られており、黒人に対して先の国であるアフリカに戻ることを奨励したとされる。彼の運動によって、後に[[ネーション・オブ・イスラム]]から[[ラスタファリアニズム]]、[[公民権運動]]にまで発展することになる。
== 略歴 ==
1887年ジャマイカのセント・アンに生まれる。キングストンで印刷工として働いた後、1912年に[[ロンドン]](イギリス)に向けて発つ。
そこで[[デュセ・モハメド・アリ]]の発行する新聞社に勤務しながら、[[ブッカー・T・ワシントン]]の著作を読みふけり、時には[[ハイド・パーク]]のスピーカーズコーナーに立ち、演説をした。
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==異なる視点==
1921年頃、ガーベイは、「民族純化」への信念に傾き、[[ウオレン・G・ハーディング]]が自らを混血であることを否定した演説を賞賛した。彼は[[W・E・B・デュボイス]]に対して強い敵意を持っていなかったが、以前にブラック・スター・ラインを批判されたことで仲は悪かった。ブラック・スター・ラインは単なる海運会社であり、アフリカ回帰主義とはまったく関連がないというデュボイスの批判は当たっている。実際に保有しているのは、古い形の船舶が2隻だけだった。しかしガーベイ信者は、この船で母なるアフリカへすべての黒人をアフリカに連れ戻してくれる、という誤解を持っていた。まさしくこれは、ガーベイのカリスマ的な演説によるものだった。
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== 影響 ==
[[File:Jamaica 20 dollars.jpg|thumb|20ジャマイカドル硬貨]]
ガーベイの記憶は世界中で今なお生きている。アフリカ、ヨーロッパ、カリブ海、アメリカ合衆国の学校、大学、ハイウェイ、ビルが彼の名誉にちなんで名付けられている。UNIAの赤、黒、緑の旗は、[[汎アフリカ色]]の「黒人解放旗」として採用されている。1980年から、ガーベイの胸像は[[ワシントンD.C.]]の[[米州機構]]の英雄ホールに展示されている。
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