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'''フランク・セッジマン'''('''Frank Sedgman''', [[1927年]][[10月29日]] - )は、[[オーストラリア]]・[[ビクトリア州]]モントアルバート出身の男子[[テニス]]選手。フルネームは ''Frank Allan Sedgman'' (フランク・アラン・セッジマン)という。[[1950年代]]初頭の男子テニス界に君臨し、[[オーストラリア]]・テニス界の黄金時代の最初期を築いた名選手である。セッジマンは[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]で総計「22勝」(男子シングルス5勝+男子ダブルス9勝+混合ダブルス8勝=22勝)を記録し、[[1951年]]に2歳年下の[[ケン・マグレガー]]と組んでテニス史上初の男子ダブルス部門「[[グランドスラム (テニス)|年間グランドスラム]]」を達成した。混合ダブルス部門でもすべての4大大会を制覇した「キャリア・グランドスラム」達成者であり、彼が獲得できなかったタイトルは[[全仏オープン|全仏選手権]]の男子シングルスだけである。セッジマンのテニスは、重厚なフォアハンド・ストロークや、スピード感にあふれた華麗なボレーを大きな持ち味とした。
== 来歴 ==
フランク・セッジマンの競技経歴は[[1946年]]の[[1946年オーストラリア選手権 (テニス)|全豪選手権]]から始まり、初出場時は4回戦まで進出した。[[1948年]]の[[1948年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]]男子ダブルスで、セッジマンは同じ[[オーストラリア]]の[[ジョン・ブロムウィッチ]]とペアを組んで初優勝を飾り、決勝で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]ペアの[[ガードナー・ムロイ]]&[[トム・ブラウン (テニス選手)|トム・ブラウン]]組を 5-7, 7-5, 7-5, 9-7 で破って最初の[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]タイトルを獲得した。[[1949年]]からセッジマンは全盛期を迎え、[[1949年オーストラリア選手権 (テニス)|全豪選手権]]で男子シングルス・混合ダブルスの2部門制覇を果たし、男子テニス国別対抗戦・[[デビスカップ]]の[[オーストラリア]]代表選手にも選ばれた。全豪選手権の男子シングルスで、セッジマンは[[ジョン・ブロムウィッチ]]を 6-3, 6-2, 6-2 のストレートで破り、4大大会の男子シングルスで初優勝を飾る。混合ダブルスでは[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ドリス・ハート]]とペアを組んで優勝した。[[1950年]]は[[1950年オーストラリア選手権 (テニス)|全豪選手権]]の男子シングルスと混合ダブルスで2連覇を達成し、男子シングルス決勝では[[ケン・マグレガー]]を 6-3, 6-4, 4-6, 6-1 で破り、混合ダブルスでは[[ドリス・ハート]]とのペアで2連覇した。この年は[[1950年全米
[[1951年]]は男子テニスの歴史に大きな記念碑が刻まれた年となり、フランク・セッジマンと[[ケン・マグレガー]]のペアがテニス史上初の男子ダブルス「[[グランドスラム (テニス)|年間グランドスラム]]」を達成した。男子ダブルス部門における年間グランドスラムは、今なおこのペア1組だけである。[[1951年]]と[[1952年]]の2年間は、文字通りセッジマンの黄金期であった。[[1951年]]は[[1951年全米
テニス4大大会のすべてにおいて、男女シングルス・男女ダブルス・混合ダブルスの3部門に「[[グランドスラム (テニス)|キャリア・グランドスラム]]」を達成することを、テニス用語では「ボックス・セット」(Boxed Set)という。フランク・セッジマンは[[ケン・マグレガー]]と組んだ男子ダブルス「年間グランドスラム」に加えて、混合ダブルス部門でも[[ドリス・ハート]]と組んで「キャリア・グランドスラム」を達成した。男子ダブルスでは[[ジョン・ブロムウィッチ]]と組んだ優勝もあるが(ブロムウィッチと2勝+マグレガーと7勝=総計9勝)、混合ダブルスで挙げた8勝はすべてハートがパートナーであった。彼が唯一獲得できなかったタイトルは、[[全仏オープン|全仏選手権]]の男子シングルスであった。[[1952年全仏
[[1952年]]12月29日-31日の[[デビスカップ]]3連覇を最後に「アマチュアテニス選手」の競技から退いたセッジマンは、[[1953年]]から[[ジャック・クレーマー]]の勧めにより「プロテニス選手」に転向した。当時の4大大会は出場資格がアマチュア選手に限定され、プロテニス選手たちには別の大会群があった。前年までの彼の活躍を見ていたオーストラリアのテニスファンたちは、彼のプロ転向を思いとどまらせるための資金提供まで試みたという。プロ選手に転向後、セッジマンは「全米プロテニス選手権」(US Pro)で[[1954年]]のシングルス準優勝や、[[1961年]]のダブルス優勝などの成績を残した。[[1968年]]、テニス4大大会にプロ選手の出場を解禁する「オープン化措置」が実施され、セッジマンは[[1970年]]から[[1976年]]まで4大大会にも再挑戦した。40歳代を迎えてからの再挑戦は、[[1971年]]の[[1971年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]と[[1972年]]の[[1972年全豪オープン|全豪オープン]]で3回戦進出がある。[[1976年]]の[[1976年全豪オープン|全豪オープン]]2回戦敗退を現役最後の試合にした時、フランク・セッジマンは48歳であった。[[1979年]]に[[国際テニス殿堂]]入りを果たしている。
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* [[ウィンブルドン選手権]] 男子シングルス:1勝(1952年)/男子ダブルス:3勝(1948年・[[1951年]]・1952年)/混合ダブルス:2勝(1951年&1952年) [男子シングルス準優勝1度:1950年]
* [[全米オープン (テニス)|全米選手権]] 男子シングルス:2勝(1951年&1952年)/男子ダブルス:2勝(1950年&[[1951年]])/混合ダブルス:2勝(1951年&1952年)
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!年!!大会!!対戦相手!!試合結果
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| [[1949年]] || [[1949年オーストラリア選手権 (テニス)|全豪選手権]] || {{flagicon|AUS}} [[ジョン・ブロムウィッチ]] || 6-3, 6-2, 6-2
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| [[1950年]] || [[1950年オーストラリア選手権 (テニス)|全豪選手権]] || {{flagicon|AUS}} [[ケン・マグレガー]] || 6-3, 6-4, 4-6, 6-1
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| [[1951年]] || [[1951年全米
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| [[1952年]] || [[1952年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]] || {{flagicon|EGY1952}} [[ヤロスラフ・ドロブニー]] || 4-6, 6-2, 6-3, 6-2
|-style="background: #CCF;"
| [[1952年]] || [[1952年全米
|-
|}
== 関連項目 ==
* [[グランドスラム (テニス)]]
== 外部リンク ==
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