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'''前田 俊彦'''(まえだ としひこ、[[1909年]][[9月17日]] - [[1993年]][[4月16日]])は、社会運動家。市民運動関係者から、「前田のじいさん」と、慕われていた。[[福岡県]]鞍手郡[[宮田町 (福岡県)|宮田村]](現・[[宮若市]])出身
 
==生涯==
[[1909年]]9月17日、[[福岡県]]鞍手郡[[宮田町 (福岡県)|宮田村]](現・[[宮若市]])に生まれる。[[1917年]]、父が亡くなったため、祖父が初代村長をつとめた京都郡延永村(現・[[行橋市]]延永)に移り、延永小学校に転校。[[1926年]]、[[福岡県立育徳館中学校・高等学校|福岡県立豊津中学校]]を卒業して、東京方面に行く。
 
労働組合運動に関わり、[[1931年]]、[[日本共産党]]に入党する。関西地区の[[オルグ (社会運動)|オルグ]]を担当する。[[1932年]]、[[治安維持法]]・陸軍刑法違反で検挙される。懲役7年の実刑判決を受け、[[福岡刑務所]]に下獄する。[[1940年]]、保安処分となり、[[門司市]]に移り住むが、再度治安維持法違反で禁固10ヶ月の判決を受ける。[[1946年]]、木工所を開業する。[[1947年]]、日本共産党を離党する。[[1948年]]、延永村の村長に当選し、最後の延永村長となる。なお、延永村は、行橋町や周辺の町村と合併し、[[1954年]]10月に行橋市となる。以後、農業のかたわら種々の仕事に携わり、[[1962年]]6月、個人誌瓢鰻亭通信を創刊する
 
[[1977年]]、[[千葉県]][[成田市]]三里塚に移住し、[[成田国際空港|新東京国際空港]]建設反対の立場を明確にして、「三里塚空港廃港宣言の会」代表に選ばれる。[[1983年]]、[[第13回参議院議員通常選挙]]比例代表区に[[無党派市民連合]]から立候補したが落選する。正々堂々、[[どぶろく]]を造り、客にふるまっていたが、[[1985年]][[酒税法]]違反容疑で起訴され、「[[どぶろく裁判]]」として知られる裁判闘争となる。[[1986年]]3月、千葉地方裁判所での判決で罰金30万円の有罪となり、控訴しても棄却され、[[1989年]][[12月14日]]最高裁判所にて上告棄却の判決確定となる
 
[[1993年]][[4月16日]]、自宅の火災により焼死。{{没年齢|1909|9|17|1993|4|16}}。