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『[[参考諸家系図]]』によると、主君・[[南部信直]]から父・信愛の功により2050石を得ている。『岩手県史 第3巻』所載の系図では2150石とある。
 
『岩手県史』によれば、[[九戸政実#九戸政実の乱|九戸政実の乱]]後、九戸側につき滅んだ旧[[一戸氏|一戸]]方の寺田館([[寺田城]])を領し2500石を知行している。また、寺田館へは北館から移ってきたとされる(『[[日本歴史地名大系]]』)。早くから所領を持って父・信愛から独立していたため、弟・秀愛と父・信愛の死で断絶した[[花巻城|花巻]]北氏の名跡は継がなかった。また父・信愛が名跡継承を願わず死去してその所領が藩に接収されたため、愛一と弟・直継は新たに禄を得て家を興す形になったともされる[http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20101006_16]。
 
跡を子の直愛が2100石で継いだ。直愛の弟・愛言は分家した。しかし直愛の死後に跡を継いだ愛時は遺領のうち500石しか継げず、また愛時は病ですぐ隠居してしまい、子の岩松が早世して北氏嫡流は断絶した(『岩手県史』)。一方「参考諸家系図」によると、早世した岩松の家督は愛時の弟・愛紀が継いだとあり、愛紀は300石を知行した。のち当主自害によって一旦改易され、50石で再興され幕末に至った。