「小早川秀包」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
124.255.0.170 (会話) による ID:38907884 の版を取り消し
36行目:
秀包は秀吉に愛され、優遇された。天正13年([[1585年]])に[[河内国|河内]]で1万石、ついで[[四国攻め|四国征伐]]の時に[[金子氏|金子元春]]の守る[[伊予国|伊予]][[金子城]]を攻略し、後に伊予[[宇和郡]][[大洲城|大津城]]で3万5千石を与えられた。天正14年([[1586年]])から始まる[[九州の役|九州征伐]]では養父・隆景に従い[[豊前国|豊前]][[香春岳城|香春嶽城]]を攻略し、戦後に隆景が[[筑前国|筑前]]・[[筑後国|筑後]]を領すると、筑後3郡7万5千石を領した。天正15年([[1587年]])には[[久留米城]]を築き、居城とした。
 
そして[[肥後国人一揆]]討伐の総大将として出陣し、[[和仁親実]]ら兄弟が籠城した[[田中城 (肥後国)|田中城]]を攻略し、[[立花宗茂]]と共に戦功を挙げ、[[義兄弟]]の契りを結んだ。この2人は天正17年([[1589年]])に[[侍従]]に叙任されて、秀包は「羽柴久留米侍従」と呼ばれるようになった。
 
久留米を居城とした後は[[大友義鎮|大友宗麟]]の娘を妻とした縁もあり、受洗。洗礼名をシマオ(Simao)とした。以後は[[キリシタン大名]]としての活動が目立つようになり、天正19年([[1591年]])には[[高良大社|高良山]]座主・[[麟圭]]父子を誘殺し、城下に天主堂を建設、キリスト教信者は7,000人と言われる。もっとも麟圭を滅ぼしたのは宗教対立からではなく、純粋な武力抗争の結果である。後に秀包は麟圭の末子秀虎丸を召し出して高良山座主尊能としている。