「立花宗茂」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
124.255.0.170 (会話) による ID:38907959 の版を取り消し
54行目:
立花軍は佐々軍に兵糧を支援し平山城に入城したが、一揆方3,000の兵に包囲された。その対応のため、先に輜重を運輸したの人夫を使って「立花軍は明日に城を出て柳川へ帰る」との偽情報を敵陣に流し、当日は軍を三隊に分けて由布惟信と[[十時惟由]]を先鋒に任じて疾駆の勢いで敵を奇襲突破したが、宗茂率いる本隊は[[三加和町|三加和]]平野立尾の地で一揆方に挟撃された。そのとき宗茂は戸次家伝来の名刀・笈切り兼光を持ち馬上で敵兵七人を斬り伏せ、横撃して来た有動下総守と一騎討ちして討ち取った。やがて由布・十時の先鋒隊が反転し、小野鎮幸の後備隊が合流して全力で突破し一揆軍を総崩れにした。
 
その後、街道に沿う一揆方の出城を攻め落として、捕虜を城上や軍の前に置くことで一揆軍の攻撃を避けつつ南関に近い太田黒城へ進軍、たが城将・大知越前守は弓隊を伏兵として立花軍を奇襲した。立花軍は矢の当たりにくい森の中へ500の城兵をおびき出し、十時連貞と小野鎮幸率いる300が反転して迎撃、そして由布惟信が郎党20人を率いて堀や木柵を越えて一番乗りの功を立て二の丸に至る。大知越前守は50騎を率いて迎撃したが、[[池辺永晟]]と一騎討ちして討たれた。この時、立花軍は1日に13度もの戦いを行い、一揆方の城を7城も落とし、650余の敵兵を討ち取ったという武功を上げている。また一揆方の和仁三兄弟の田中城を包囲するとき、参陣中に[[小早川隆景]]を義父とし、[[毛利秀包|小早川秀包]]とも[[義兄弟]]の契りを結ぶ。秀包と共に城内に攻め込み、宗茂自身は和仁中務少輔を討ち取った。
 
天正18年([[1590年]])、[[小田原の役|小田原征伐]]に従軍する。このとき、秀吉は諸大名の前で「東に[[本多忠勝]]という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と、その武将としての器量を高く褒め称えたという。