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[[自然哲学]]においては17世紀の段階では、ほぼ全員の人々は、物というのは直接にぶつからないと互いに影響しあわない、とする考え方で世界を理解し<ref>注. これを現代的な用語では「近接作用論」と言う。デカルトの[[渦動論]]も近接作用論である。これに対してアイザック・ニュートンが唱えた[[万有引力]]は現代的な用語では「遠隔作用論」に分類される。</ref>、それを正統なものとしていた。[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]が『[[自然哲学の数学的諸原理]]』(1687年)において[[万有引力]]という新たな考え方を提唱した時には、[[ライプニッツ]](およびライプニッツ一派の人々)は、その考え方を「[[オカルト]]」という言葉で呼びつつ排斥しようとし、大陸側とイギリス側、[[ドーバー海峡]]を挟んで論争となった。その後も数十年間、大陸側の学者たちは「物は直接ぶつからない限り互いに影響しない」とする考え方を正統なものとし、「離れていても影響する」という考え方を異質な考え方として排斥しつづけた。<ref>フランス(つまり大陸側)の人間である[[ヴォルテール]]が、イギリスに滞在した折、重力について(宇宙について)大陸側とイギリス側で全然異なった説明が行われていることを見出して、その感想を語った書簡が残されている。</ref>
 
西欧では学問、すなわち知の探求は一般的に[[ラテン語]]等で[[哲学|philosophia、philosophie]](フィロソフィア、「知を愛すること」の意)などと呼ばれていて大学における各学問の呼称もフィロソフィアであった<ref>18世紀の半ばすぎでも、学問のほとんどは、「philosophy of ...」のように、あくまでフィロソフィアを冠して呼ばれていた。</ref>、学問の世界ではフィロソフィアが正統なものであった。だが(おおよそ18世紀後半から19世紀半ばにかけて徐々に)そうしたフィロソフィーの中からある種の(独特の)傾向の知識があると考える人たちが増え、そのような知識を探求する人の数の増加も反映し1833年にはウィリアム・ヒューウェルが「[[科学者|scientist サイエンティスト]]」という語を造語し、自分たちをそう呼ぶことが提案された。だがそれがすぐに定着したわけではなく、その時代、大学という制度で地位が認められ社会的にも認められている学者たちは scientiaを正統的でない知識と見なしており、scientistたちの社会的な地位は概して低かった。学者たちは(現代から見れば、scientistと呼ばれるような内容の活動をしている人ですら)他人から「scientist」と呼ばれることは嫌がり「philosophe 哲学者」と呼ばれることのほうを好んだと指摘されている。scientistたちは、人々から正統性が認められるには長い年月がかかった。<ref>このような科学者の社会的地位の状況の変遷などに関する歴史的事実は、村上陽一郎の一連の著作で解説されている。</ref>
 
このように社会から正統性を認められるのに苦労していたscientiaの側からも、すでに1830年代あたり<ref>端的には、[[フランソワ・マジャンディー]]の1833年の文献などが指摘されている。それ以前にも若干あった、との指摘もある。</ref>から、pseudo-scientia([[疑似科学]])という呼称で、正統的でないそれを呼び分けるようなことが行われるようになった。