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父は第2代カリフの[[ハカム2世]]。生母は[[バスク人]]のスブフ。976年に父が死去したため跡を継いだが、わずか2歳のためハカム2世の大[[カーディ]]であった[[アル・マンスール・ビッ・ラーヒ]]が後見人として統治した。[[978年]]にはハージブ(侍従)に就任した。アル・マンスール・ビッ・ラーヒは生母のスブフの寵愛を得て専権を握り、最初はヒシャームの補佐として政治を執った。しかし[[981年]]になると行政府を[[コルドバ]]の東に造営した[[アルマディーナ・アッザーヒラ]]<ref>「光輝の都市」といわれる</ref>に遷し、マンスール<ref>「勝利者」を意味する</ref>という称号を名乗って自らの名で統治した<ref>元の名はイブン・アビー・アーミルという</ref>。このため、後ウマイヤ朝のカリフは宗教的な役割のみになってしまった。アル・マンスール・ビッ・ラーヒは[[バルセロナ]]に進出し、[[レオン王国]]を服属させ、[[997年]]にはサンティアゴ・デ・コンポステラの聖ヤコブ教会を襲撃して略奪と破壊を欲しいままにした。
 
アル・マンスール・ビッ・ラーヒが[[1002年]]に死亡すると、息子の[[アブド・アルマリク (後ウマイヤ朝)|アブド・アルマリク]]が侍従として実権を握った。アルマリクも父と同様に専権を握って王朝を統治したが、[[1008年]]に死去すると実力者が欠けた後ウマイヤ朝では内紛が勃発。6人ものウマイヤ一族がカリフに即位する大混乱状態となって急速に衰退した。
 
1013年に39歳で死去。