「ゲラルド・ファン・スウィーテン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
m編集の要約なし
1行目:
[[ファイル:Gerard van Swieten Kaiserbild.jpg|thumb|Gerard van Swieten]]
[[ファイル:Gerard van Swieten - Maria Theresia Denkmal.jpg|thumb|マリア・テレジア記念碑の台座の前のスウィーテンの像]]
'''ゲラルド・ファン・スウィーテン'''(Gerard van Swieten、[[1700年]][[5月7日]] - [[1772年]][[6月18日]])は、[[オランダ]]生まれで[[オーストリア]]で活躍した医師である。臨床医学の大家で、オーストリアに招かれ、「旧[[ウィーン学派 (医学)|ウィーン学派]]」と呼ばれる学派をつくった<ref name=ogwa>『[[医学の歴史 (小川鼎三)|医学の歴史]]』小川鼎三 中公新書</ref>。
 
[[ライデン]]に生まれた。[[ヘルマン・ブールハーフェ]]に学び、1745年、オーストリアの[[マリア・テレジア]]の侍医として招かれ、オーストリアの病院や医学教育の改革を行った。植物園や化学実験室を設立し、臨床医術を導入した。1745年にはマリア・テレサの帝国図書館の司書も務めた。日本との関わりにおいては、[[坪井信道]]が翻訳した『万病治準』はブールハーヴェの著書にスウィーテンが注釈を加えた著書である<ref name=ogwa></ref>。